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第25回 絶壁と樹木が調和する湖南の小金剛 大芚山 森正哲央

第25回 絶壁と樹木が調和する湖南の小金剛 大芚山 森正哲央

第25回 絶壁と樹木が調和する湖南の小金剛 大芚山

忠清道と全羅道の道境に位置する大芚山は、最高峰の摩天台(878m)を中心に七星峰、将軍峰などの険しい峰が周りを囲み、雄大な景色が楽しめる。特に南の全羅北道側は、絶壁や奇岩と松を中心とした樹木が調和し、「湖南(全羅道)の小金剛」と呼ばれる。山麓の完州郡雲洲面山北里からロープウェイを利用すれば1時間余りで山頂に立つことができることから、手ぶらで登る観光客も多い。

一方、忠清道側も、日の出・夕日スポットの落照台(850m)、元暁大師(617―686)が創建した太古寺、滝が美しい軍地渓谷(水落渓谷)などの見どころがある。1977年には全羅北道大芚山道立公園、80年に忠清南道大芚山道立公園に指定された。登山の起点は山北里のほか、安心寺のある雲洲面完昌里、軍地渓谷の論山市伐谷面水落里、太古寺のある錦山郡珍山面杏亭里の4カ所。今回は山北里の集団施設地区からスタートし、摩天台、西角峰を経て完昌里の安心寺に下った。

大田、錦山とバスを乗継ぎ、国道27号線沿いの道立公園集団施設地区で下車する。錦山からは30分。施設区より1.5キロほど手前で通過する梨峙(峙は峠のこと)は、1592年の文禄の役で、小早川隆景と権慄(1537~99)率いる日朝両軍が衝突した古戦場で「梨峙戦績地」と刻まれた石碑が建つ。

ロープウェイ駅を過ぎ、ゴンドラが上下する索条を頭上に見ながら舗装道を登って行く。東学農民革命大芚山抗戦戦跡碑を過ぎ、石段を抜けると本格的な山道となる。大芚山は、1894年に起きた農民反乱、東学農民革命(甲午農民戦争)の戦場の一つだった。日本軍に追われた指導者らが立て篭り、最期は子ども一人を除く全員が亡くなったそうだ。


両側が切り立った谷間を、急な渓谷沿いに登る。川はところどころで小さな滝をなし、前日の雨で、山道にも水が溢れ出ていた。足元は滑りやすいが、急勾配には手摺や鉄段がよく整備されていた。山麓駅から1時、童心亭休憩場を過ぎると童心岩や、イムグム岩と立石台を結ぶ全長50メートルの金剛雲橋が見えてくる。

童心岩は、岩峰上の今にも滑り落ちそうな巨石で、元暁大師が通りかかった際に、童心岩を見て足が前へ進まず、3日間、岩の下で過ごしたと言い伝えられている。イムグム岩と立石台に挟まれた谷間は、周囲の奇岩怪石が金剛山を彷彿とさせることから金剛門と呼ばれる。文禄・慶長の役で戦死した高僧の霊圭大師(生年未詳―1592)が、僧兵を率いて越えたといわれている。橋を渡る人たちの叫声が、頭上から谷間に響いていた。

金剛門を抜けたら石段と鉄段を経てイムグム岩の金剛雲橋たもとへ。山上駅からの道と合流するので、家族連れら観光客で、急ににぎやかになる。橋を渡り、立石台の小展望台に立つと、魅力的な風景が展開する。険しい岩肌に青松がアクセントを添え一幅の絵のよう。

再び石段を登ると5分で六角亭前の三叉路。直進すれば三仙岩にかかる127段の空中階段、三仙階段だが、右折して迂回する。三仙階段は、通行禁止となっていたが、有名無実化して、みな登っていた。

三仙岩と呼ばれるのは、岩の形が三人の仙人に見えるためで、李朝の建国後、高麗の宰相が娘3人とともに大芚山に逃れ住んだが、その娘たちが仙人の形をした岩に姿を変えたとの言伝えがある。 大きな岩がゴロゴロした勾配地を抜けると山頂下の三叉路で、険しい岩峰が連なる男性的な景色から、樹林が鬱蒼とした穏やかな山容へと雰囲気が一変する。摩天台には完州郡が1970年に建立した大きな開拓碑が立つ。歩いてきたルートを眼下に辿り、展望を楽しみながら、昼をとった。

下山は摩天台から尾根伝いに西南の西角峰(826m)まで尾根を歩き、雲洲面完昌里の地蔵谷(安心谷)へと下る。3.2キロの道のりで、主要ルートではないのか人影はなく、道はところどころ下生えのササで覆われていた。

西角峰から支尾根を15分ほど下り、クムオ峰の手前から東斜面を下る。途中、落葉でルートがはっきりしない場所もあるので、迷わないよう慎重に進む。

クムオ峠から35分下降すると地蔵瀑布の上にでる。落差45メートルの大滝だが、見えるのは細い落口だけ。さらに15分、2つに割れたような双岩とあずま屋の前を通過する。伝説によると、麓に住んでいた怪力の老人が、雪岳山の岩を大屯山まで運ぼうとした。その時に落ちて割れたのが双岩で、双岩に祈れば男の子が生まれるといわれている。

さらに下り、地蔵庵との分岐をやり過ごし10分も歩けば舗装道にでる。左へ行くと新羅時代の638年に慈蔵律師(590~658)によって創建された安心寺がある。かつて規模が大きかったが朝鮮戦争で消失、ちょうど、大雄殿の再建が進んでいた。全州行きバスが通る雲洲面長仙里までは車道を4キロ歩く。バスもあるが本数が少ない。

●アクセス(バス)
・錦山~大芚山 2100ウォン。
・大芚山から西大田(3本)、錦山(7本)、全州(5本)、群山(2本)、論山(3本)行きのバスが出ている

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