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第10回「大隈重信」―近衞篤麿に最も近い政党人― その2 栗田尚弥

第10回「大隈重信」―近衞篤麿に最も近い政党人― その2 栗田尚弥

「大隈重信」―近衞篤麿に最も近い政党人― その2

文久21862)年、大隈は長崎に遊学して、米国人宣教師、チャニング・ウィリアムズ(立教大学の前身である立教学校の創設者)の私塾で英学を学んだ。同じウィリアムズ門下には、同郷(佐賀藩士)の副島種臣(維新後新政府の外務卿、参議となるが、明治六年政変で一旦下野。後に政界に復帰し、枢密院副議長、内相等を歴任。副島は弘道館時代の大隈の師の一人でもある)、越後(現、新潟県)出身の前島密(維新後、駅逓頭さらに駅逓総監に任じられ、郵便制度創設に尽力。日本郵便の父と言われる)、長州藩の高杉晋作らがいた。

長崎において、高杉ら長州藩尊皇攘夷派と接したためかどうかは定かではないが、遊学以降の大隈は、副島、江藤新平(維新後参議となるが、明治六年政変で下野。佐賀の乱の首魁として処刑される)とともに佐賀藩尊攘派の中心人物の一人として活動、文久3年の長州藩の外国船砲撃事件では長州藩を支持し、幕府による第一次長州征伐の際には、佐賀藩による幕府と長州藩の斡旋を説いている。

慶応3年、鍋島直正(この時は既に隠居、閑叟と号す)が、オランダ人宣教師グイド・フルベッキを招聘し、長崎に英学塾である蕃学稽古場(翌年、致遠館と改名)を設立すると、大隈は塾の舎長・督学(校長)となった副島のもとで、教頭格となり、藩士の指導にあたるとともに、自らもフルベッキのもとで英学に磨きをかけた。そのかたわら、長崎と京都を往来し、諸藩の尊攘派と交流を持った。しかし、幕末の政局が風雲急を告げるなか、大隈は副島とともに脱藩、京都に赴き、将軍徳川慶喜に大政奉還を勧めることを計画した。しかし、計画は頓挫し、大隈は藩当局に捕縛され、強制帰藩となり、謹慎の身となった。結局、徳川慶喜は、土佐藩前藩主山内容堂の建言を容れ、大政を朝廷に奉還、慶応3129日には、大政復古の大号令が発せられた。この時、大隈の謹慎は既に解かれており、鍋島直正の前に召された彼は、直正に積極行動(武力倒幕)を説いている。

間もなく、大隈は、幕府機関が閉鎖された後の長崎の管理を担当する為、藩命により再び長崎に赴任したが、慶応49月に明治改元)年2月、新政府の長崎裁判所参謀助役に任ぜられた。さらに、翌月には、徴士参与職、外国事務判事に任ぜられた。大隈を高く評価していた井上馨(長州藩士、維新後、大蔵卿、外相、内相、蔵相などを歴任)が、木戸孝允(長州藩士、旧名桂小五郎、維新の三傑のひとり、維新後、参議)に推薦したためと言われている。以後、大隈は、外国官副知事、会計官副知事、民部大輔、大蔵大輔、大蔵省事務総裁、地租改正事務局総裁、大蔵卿と、新政府の階梯を駆け上がり、明治初年の太政官制のもとで、太政大臣、左・右大臣に継ぐ地位である参議のひとりとなった(大蔵卿兼務)。

大隈は明治初年にあって、鉄道・電信の建設や地租改正、秩禄処分、工部省の設立など様々な改革を主導した。しかし、明治143月、大隈は、2年後に国会を開設し内閣は英国流の政党内閣とする、という意見書を提出し、伊藤博文ら他の参議を驚愕させた。また、北海道開拓使の官有物払い下げに反対するなど政府(参議)内で孤立、ついに同年10月農商務卿河野敏鎌、駅逓総監前島密らとともに辞職した(その他大隈派と見られていた官吏多数が辞職、もしくは罷免)。世にいう「明治十四年の政変」である。

野に下った大隈は、明治154月、河野、前島、小野梓(法学者、大隈辞職にともない司法省を辞職)、高田早苗(後に文相、早大総長)、犬養毅(後に首相、515事件で射殺される)、尾崎行雄(明治から第2次大戦後まで代議士を務め、「憲政の神様」「議会政治の父」と称される)らとともに立憲改進党(29年、いくつかの小政党と合体し進歩党となる)を組織する。その一方、大隈は、将来を担う青年を育成すべく、東京郊外早稲田に東京専門学校(現、早稲田大学)を、小野、高田とともに創設した。この学校が、今日に至るまで、多数の逸材を輩出してきたことはここでいうまでもない。

立憲改進党は全国的に組織を拡大し、前年板垣退助らが組織した自由党(後に立憲自由党、さらに自由党と改称)ともに自由民権運動を主導していくことになる。ただし、自由党が、フランス流の急進民権主義を採るのに対し、改進党は英国流の立憲君主制に立つ穏健な民権主義を範としていた。このことが近衞と大隈を結びつけることになる。近衞が、英国流の立憲君主制を是とし、政党内閣制に理解を示していたことは既に述べた。後に、大隈の懐刀であった高田早苗は、次のように語っている。

(近衞公爵は)外に対しては諸君の御承知の如くに対外硬、内は立憲主義でありました。―中略―立憲主義は固よりでありますが、更に政党主義、政党内閣というものを是認して居られたと私は始終思つております。―中略―所謂イギリス流の政党内閣になるのであるが、さういふ風にした方が宜しいと思うといふことをよくお話致しましたが、近衞公はそれを是認せられて、その通りだと仰せられました。(「挨拶に代へて」『支那』第25巻第23合併号)


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