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第11回「大隈重信」―近衞篤麿に最も近い政党人― その3 栗田尚弥

第11回「大隈重信」―近衞篤麿に最も近い政党人― その3 栗田尚弥

「大隈重信」―近衞篤麿に最も近い政党人― その3

明治208月、条約改正交渉に行き詰まっていた外相井上馨は、首相伊藤博文(第1次伊藤内閣)に後任として大隈を推薦した。入閣条件を巡って大隈と伊藤の間で意見の齟齬があり、大隈の入閣はなかなか進まなかったが、結局翌212月、大隈は外相として入閣する。入閣に際し、大隈は、明治十四年の政変で下野した河野敏鎌、前島密らを官職に復帰させている。(214月、伊藤に代わって、黒田清隆が組閣するが、大隈は外相として留任。)
大隈の条約改正案は、治外法権を撤廃する代わりに日本の裁判所に外国人判事を登用する(後に帰化させた後に登用と変更)というもので、世論から痛烈な批判を浴び、閣内でもこれを支持するのは、黒田首相と榎本武揚文相のみであった。明治2210月、大隈は、条約改正案に反対する玄洋社社員来島恒喜によって爆弾による襲撃を受け、右脚を失う。同月、入院中の大隈を除く黒田内閣の全員が辞任、大隈も同年12月辞任した。
明治319月、第2次松方正義内閣が成立すると、大隈はまたもや外相として入閣した。大隈は副総理格としての入閣であり、そのためこの内閣は「松隈内閣」と呼ばれるようになる。進歩党からの入閣者は、大隈以外にいなかったが、進歩党の高橋建三が内閣官房長官に、中立ながら進歩党に近い神鞭知常が内閣法制局長官に就任した。また、高田早苗が外務省の通商局長に就任、さらに翌303月、大隈が農商務相を兼務するようになると、進歩党員の大石正巳が農商務次官に就任した。「松隈内閣」は政党内閣はないが、政党(進歩党)の影響力がそれなりに強い内閣であった。

松隈内閣成立後、大隈は貴族院内の〈同志〉(と大隈に眼には映じたであろう)である近衞に、高田早苗を通じて文相就任を打診している。当時近衞は、学習院の院長職にあったが、文相にして学習院長を兼摂する様になれば宜しからん」(『日記』第1巻)というのが大隈の考えであった。近衞は、入閣は拒絶するが、松方首相の依頼により貴族院議長に就任する。先述したように、その際議長に近衞を推薦したのは大隈であった。
明治316月、日本発の政党内閣である板隈内閣(憲政党内閣)が成立、大隈はその首班となった(先述)。総理となった大隈は、神鞭知常を使者にたて近衞に幾度も入閣を要請した(法制局長官就任の要請であるので、厳密には入閣とは異なるが)。この時には、高田早苗も、「大隈さんに頼まれて近衞さんを引つ張つた」(「政治家としての近衞霞山公」前掲『支那』第25巻第23合併号)という。しかし、近衞は「なかなか大隈さんのいうことをきかな」(同上)かった。

明治24年、近衞は自ら筆をとって三曜会の趣意書を書いている。そのなかで近衞は、「夫れ貴族院を置く所以は蓋し政権の平衡を保つの機関となり中略其の議員たるものは政府の政略と政党の方策とを問はず苟も偏見と認むべきものあれば決して之を助けず以て誠心誠意心我が皇室を護り我が憲法を守り又以て忠実に国民福利の道を講ずべきのみ」(工藤武重『近衞篤麿』公)と述べている。近衞は、大隈とは違った立場で立憲国家建設に尽力しようとしたのではないだろうか。

とは言え、立憲主義者の近衞が、政党内閣成立を「政界の一進歩」として「慶賀」したことは事実である。しかし、近衞は、この日本初の政党内閣に一抹の不安を感じていたようで、「憲政党にして立憲制の好模範を示すこと能はずして、徒らに情実纏綿の状を顕すが如きことあらば、断じて賛成すること能はざるなり」(『日記』第2巻)と述べている。

近衞の不安は的中する。憲政党の母体となった進歩党と自由党は、共に自由民権運動を牽引してきた政党であったが、様々な相違点を有しており、内閣成立当初から「板隈両伯の心中尚ほ隔意あるものゝ如く、永続の点甚覚束な」(神鞭知常、『日記』第2巻)い状態であった。結局、与党憲政党は結党後間もなく分裂、板隈内閣も4か月の短命に終わった。内閣瓦解後、旧進歩派は、改めて憲政本党を結成する(事実上、大隈が党首)。

この現実を前に近衞は、「日本の政党は政党にあらず、政党に名を仮りたる人党なり。即ち大隈党なり、板垣党なり。―中略―已に日本中一の政党なし。人党を政党として採用する、已に誤れり」(同書)と痛烈に批判する。もっとも、同時に「他日必ず主義をもって立つべき政党の発生すべき時機はかならず到達すべく、また到達せしめざるべからず」(同書)と続け、政党の将来については、必ずしも悲観的ではない。

板隈内閣にはいたく失望した近衞であったが、大隈個人に対する厚誼の情は変わることはなかった。例えば、明治32118日大隈邸を訪問した際には、同年2月からの近衞自身の欧米訪問や朝鮮における学校経営、さらには康有為の処遇について相談している(『日記』第2巻)。明治339月、近衞を中心に国民同盟会が組織されると、大隈率いる憲政本党は党としてこれに参加している。その他、『近衞日記』を見ると、板隈内閣瓦解後も、近衞が大隈をしばしば訪問・歓談していることが分かる。

明治339月、大隈は正式に憲政本党の総理(党首)に就任した。しかし、以後の政治家大隈重信には往年の輝きはもはや感じられない(401月、憲政本党総理辞任)。明治末期から大正初年にかけての大隈は、政治家としてよりも、むしろ、早稲田大学総長、大日本文明協会の会長、さらには南極探検協会会長など、教育や文化事業の面でその存在感を示している。

大正34月、76歳の大隈は、シーメンス事件で倒れた山本権兵衛内閣の後を受けて組閣した(第2次大隈内閣)。76歳での政界復帰であった。同年第1次世界大戦が勃発すると、大隈内閣は連合国軍側で参戦した(8月)。そして、翌大正41月、同内閣は、山東省での権益の確保、南満州・東部内蒙古での利権の確保、中国政府の顧問として日本人を招聘すること等、21か条からなる要求を、袁世凱政府に突きつけた(対華21かの要求)。21か条の要求については、「大隈は、日本指導の中国保全論を唱え、対華21ケ条要求もその延長線上で理解し、袁世凱政権の倒壊も意図していた」(小池聖一「大隈重信」中村義他『近代日中関係史人名辞典』)という見解もある。しかし、この要求は、中国のナショナリズムを刺激し、日中関係が悪化する大きな要因となった。また、同盟国英国を含む列強の猜疑心も招いた。

21か条の要求が発せられたとき、近衞はすでに鬼籍に入っている。従って、この要求について近衞の意見を聞くことは出来ない。ただ、近衞の信任厚く、東亜同文会の幹事長も務めた、東亜同文書院院長根津一は、次のように21か条の要求を批判した。
元来彼の二十一箇条は日本の不正義に由るものにして、独り支那国民之れを暴戻視するのみならず、支那在留外国人も其の日貨排斥を以て日本の自業自得となす所、惟ふに汝に出たるものは汝に反る。自ら犯すの罪は宜しく之れを自ら償はざるべからず。(根津一「時局所感五大綱」東亜同文書院滬友同窓会『山洲根津先生伝』)

大正5104日、大隈は辞表を提出、同月9日第2次大隈内閣は幕を閉じた。その約52か月後に大正11110日、大隈は早稲田の自宅で死去、同月17日「国民葬」をもっておくられた。満83歳であった。

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