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〔23〕ヤマトホテル以外にもあった大連の名ホテル 小牟田哲彦(作家)

〔23〕ヤマトホテル以外にもあった大連の名ホテル 小牟田哲彦(作家)

〔23〕ヤマトホテル以外にもあった大連の名ホテル

第2次世界大戦前の満洲国や関東州(日露戦争によって日本が遼東半島南部に獲得した租借地)で旅行者を出迎えた宿泊施設の代表例と言えば、満鉄がチェーン展開したヤマトホテルであることに疑いの余地はない。満鉄による営業時代はもとより、新中国が成立した戦後も、旧ヤマトホテルの多くはそれぞれ当地の一流ホテルとして営業を続けた。日中国交正常化後は、往時を偲ぶ日本人観光客にとりわけ高い人気を誇った。

だが、戦前の満鉄沿線にはヤマトホテル以外にも多くの宿泊施設が営業していた。その中には、戦後もヤマトホテルと同じように新中国へ引き継がれ、近年まで伝統ある洋式ホテルとして実際に宿泊できたところもある。

大連にあった遼東ホテルは、そんな知られざる名ホテルの良き一例と言える。日露戦争のさなかに開業し、当初は和洋両様式の客室を有するホテルだった。明治末期には、ハルピン駅頭で暗殺される直前の伊藤博文が宿泊したという。大正8(1919)年刊行の旅行ガイドブック『朝鮮満洲支那案内』には大連の宿泊施設の案内として、「日本風旅館は遼東ホテルを第一とし和洋両様の設備有り」と記述し、「純西洋風」の大連ヤマトホテルと区別している。畳敷きの和室の存在は、ヤマトホテルとの大きな違いである。宿泊料金は「二圓乃至五圓」で、「歐式室料二圓五〇以上十圓迄」よりやや安い程度。

23_大連飯店(2002年).jpg

昭和5(1930)年には、大連郊外の星ヶ浦ヤマトホテルの設計も手がけた日本人建築家・横井謙介の設計によりレンガ造りの洋風建築へとリニューアルしたが、その後も和室と洋室が併存していた。改築当初は6階建てだったが、その後、上部に建て増しされて7階建てになった。1階には百貨店が入っており、昭和初期の大連観光記念絵はがきの中には、「遼東百貨店」の名で紹介されているものもある。

戦後も大連有数の格式あるホテルであることに変わりはなく、周恩来など新中国草創期の要人が利用したという。そうして昭和初期の姿をほぼとどめたまま、21世紀初頭まで「大連飯店」と称する2つ星ホテルとなって受け継がれていた(画像参照)。最高級の5つ星ホテルからはランク落ちするが、老朽化している点を考慮すればやむを得ないだろう。私は2002年に実際に宿泊したことがあり、さすがに和室はなくなっていたが、外観はもとより館内の趣もクラシックで、格付けの星数の多寡を超越する重厚な雰囲気が漂っていた。

その後、残念ながら大連飯店はホテルとしての営業を休止し、大通り側に縦長で掲げられていた看板も撤去された。大連ヤマトホテルの系譜を受け継ぐ大連賓館の営業休止に比べると、ほとんど注目する人もいなかったが、昭和初期の改築からまもなく100年を迎える歴史的建築物であることには変わりがない。いつかまた、大連を訪れた旅行者が何らかの形で館内に立ち入れる日が来ることを期待したい。


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