第14回 近衞篤麿 忙中閑あり 嵯峨隆
清韓漫遊の記
明治34(1901)年7月から8月にかけて、近衞篤麿はおよそ40日間にわたって中国北方と朝鮮を訪問した。2年前の海外歴訪とは違って、この時の訪問は政府派遣の公式のものではなかった。工藤武重による伝記には、「前年未了の北清視察の宿志を済さんと欲し」たとあるが、当時は義和団戦争も終結に近づきつつあり、近衞としては国民同盟会の活動のためにも、北京に渡り政府上層部の意見を聞いておきたいと思ったのだろう。
近衞は6月中旬に訪中の意志を固めていた。政府にもその旨を伝えていたが、桂首相からは時期を改めてはどうかとの注文が付けられていた。しかし、近衞としては7月中旬には出発したい意向であった。7月5日、「清韓漫遊の願書」に許可が下り、近衞は12日に新橋駅を出発し、門司港から船で朝鮮海峡を渡り、18日に天津に到着した。同行者は陸実ら5名で、いずれも国民同盟会の会員であった。
天津では在留日本人や軍関係者と会っているが、多くは義和団事件で派遣された軍人だったのだろう。21日、近衞一行は北京に移った。列車は「西太后御料客車」であったので、一行が貴賓待遇であったことが分かる。北京到着後は雍和宮、円明園などを参観しており、観光にも余念がなかった。ただ不思議なのは、当時の近衞の日記には八ヵ国連合軍の占領の様子が全く書かれていないことである。意識的にそうしたのか、それとも関心がなかったのかは分からない。
北京滞在中、近衞は那桐、慶親王、粛親王、恭親王といった政治家や皇族と面会している。2年前の中国訪問で南方の指導者と会った際には、会談内容や人物評を日記に書き残していたのだが、今回はそのような記述はまったくない。これもやはり不思議なことだ。また、近衞は親ロシア派の李鴻章とも会っており、一説にはロシア問題について話し合ったとも言われているが、日記にはそれらしきことは書かれていない。
近衞のロシア問題についての主張に対しては、民間の人々からの共感者が多かったようだ。23日には、王儀鄭という人物から近衞宛てに書簡が届いている。そこでは、国民同盟会の主旨に賛同するとして、「互いに相維持し、連絡して気を一にすれば、其の勢は孤ならず、其の力も自ずから倍するに庶幾(ちか)からん」と述べられていた。この時代には、書簡を送った人物と同名の書家がいるが、果たしてその人物なのかは不明である。
また、朱錫麟という人物からも書簡を受け取り、彼とは面談までしている。これは拙著『東亜同文会初代会長 近衞篤麿評伝』でも触れたことだが、近衞の日記の7月25日の条には、来状として朱錫麟の名が記され、書簡が付されている。この書簡で朱は、近衞の反ロシア論および支那保全論の主張を称え、「東西の人士中の真心より我が中国を保全せんと欲する者は、我が公一人のみ」とする。そして、教育救国の主旨にも賛同して、「能く公爺の一言の力を藉り、興養立教の功を成すを得ば、則ち特(ただ)に敝国の幸のみならず、東亜の大局に幸甚なり」と述べており、近衞に対する評価と期待が高かったことが窺える。
この朱錫麟という人物についてはほとんど知るところがない。ただ、中国の検索エンジン百度(バイドゥ)で調べてみると、20世紀初頭に丁開嶂という人物とともに反ロシアを唱える抗俄鉄血会を組織し、後には独自に東亜義勇隊を創設した同名の人物がいる。書簡でも「小子は拒俄会中の人なり」とあるので、おそらくこの人物であった可能性が高い。そうだとすれば、近衞の政治的主張は中国の政治指導者のみならず、一部の青年知識人の中でも知られていたと推測される。
さて、近衞一行は30日に北京を離れ、天津を経て山海関や長城で遊んだ後に朝鮮に向かい、8月16日に京城に到着した。
近衞は京城では王宮などの施設を参観し、18日には在留官民による舟遊びに招かれた。おそらく屋形船のようなものだろう。日記には次のようにある。「公使館、領事館諸員、其他六十名計なり。舟数隻を漢江に浮べて上下す。又漁舟を僦(やと)ひて漁せしむ。鱸、鯉の類最も多く,河豚も又少なからず。妙なりといふべし。京城芸妓数名舟中に周旋す」。この度の旅行においては、これまで何度も宴会が開かれているが、その内容について書いたのはこの日だけなので、近衞としてはよほど興に乗ったものと思われる。
翌19日は皇帝との謁見が行われた。前日の行楽とは打って変わった一日である。午後4時半、近衞は大礼服を着て慶運宮(後の徳寿宮)に赴いた。この年は暑中の謁見はしていなかったとのことだが、特別に許されたとのことだった。皇帝と皇太子の謁見が行われた後、一緒に参列した者たちは皆退席させられ、皇帝から近衞に向かって直々に、韓国亡命者処分の件と、日韓両国皇室の親密を望むとのお言葉があった。こうした待遇が、近衞の五摂家筆頭の家柄に由るものであったことは言うまでもない。
23日、近衞は仁川で教育会衛生会大会において講演を行っている。その内容は海外に暮らす日本人に求められること全般について述べたもので、一般的議論を超えるものではない。だが、日本人が海外で信用を保つ必要性を述べる中で、今回中国で見聞したことを事例に挙げていることは興味深い。
近衞によれば、義和団事件を契機にして天津などでは大量の日本製品が販売されるようになった。しかし、中には粗悪品も多く出回るようになっていた。近衞が槍玉に挙げるのは日本麦酒と平野水(後の三ツ矢サイダー)である。これらは当初、消費者に歓迎されていたが、あまりの粗製濫造がたたり粗悪品ばかりとなって信用を失い、まったく売れなくなったと言うのである。
また、近衞は天津滞在中に食事のためにあるホテルのレストラン入り、ワインリストを見たところ、「English,German and Japanese Beer」と書かれていたが、Japaneseの部分は黒で消されていた。近衞はこれが売り切れのためかと思ったが、実は不味くて飲む人がいないので消したのだと知った。これは日本のビールメーカーの粗製濫造が原因であって、外国で信用を落とした結果なのである。
ビール好きの近衞としては、国産ビールが日本の信用を落とすことには情けなく思い、そして我慢できなかったことだろう。日頃、ドイツビールが世界一だとは言いながらも、彼はやはり愛国者だったのである。