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第13回 近衞篤麿 忙中閑あり 嵯峨隆

第13回 近衞篤麿 忙中閑あり 嵯峨隆

海外視察の旅(その5)

189910月、近衞篤麿は中国に滞在中だった。広州で会見した両広総督の譚鍾麟に対して、彼が厳しい人物評を示していたことは前回述べたところだ。譚は進士及第によって翰林院編修に任じられているのだから、それなりに優れた人物だったと思われるのだが、性格はまた別だったのかもしれない。

譚鍾麟は西太后に忠実で、広州蜂起鎮圧の際には孫文の長年の盟友である陸皓東らを処刑している。しかし、息子の譚延闓は清朝官僚から革命派に走り、中華民国成立後には国民党の要人として孫文の側近となる。父は孫文を弾圧し、息子は孫文の支持者になるのだから、歴史は不思議にできている。

前回、近衞が総督衙門で譚との会談の際に三鞭酒を飲んだと書いたが、これには説明が必要だろう。雑学に詳しい人なら、三鞭酒といえば中国の薬酒を思い起こすかもしれない。それは、オットセイ、鹿、山オオカミの陰茎(=三鞭)から抽出したエキスにトカゲや複数の薬草を配合し、高梁酒と合わせた酒のことで、滋養強壮に効くといわれている。

しかし、そのような酒を公式の会見の席に出すだろうか。何とも場違いな感じがするではないか。実を言えば、明治期から日本ではシャンパンを「三鞭酒」と表記していたのだ。これならおかしくない。彼らは会談の際にシャンパンで乾杯していたのである。ちなみに、今日の中国ではシャンパンを「香檳酒」と表記するのが一般的なようだ。 

さて、近衞一行は広州から香港に戻った後、10月25日に上海に渡った。翌日午後、近衞は徐家匯にある南洋公学を見学した。同校は1896年に盛宣懐によって設立された近代的教育機関である。日記には「程度は我中学程度なれ共、更に専門科を設くる筈なりとの事」、「建築は宏壮にして、寄宿舎の組織も備はれり」とある。

ところで、中国から初めて日本に留学生が来たのは、この年の旧暦3月のことである。そのうち6名が南洋公学の学生であった。日本の教育界の事情に詳しい近衞のことだから、おそらくそうした事実は知っていたのではないだろうか。そうだとすれば、彼の同校訪問は事前に予定されていたのかもしれない。

近衞一行は上海から長江を遡り、10月に29日に南京に到着した。当地では両江総督の劉坤一との会見が主目的だった。しかし、近衞にとって、劉との会見は単に両国の親善を確認することだけが目的だったわけではない。彼には中国国内に東亜同文会経営の学校を創設したいとの思いがあった。近衞はその旨を劉に告げたところ、彼からは協力に応じるとの回答を得ることができた。東亜同文書院の出発点はこの時にある。

11月1日、近衞一行は武漢に移動した。今度は湖広総督の張之洞に会見するためであった。会見の前日の3日は「天長節」であったので、当地での様子を見ておこう。

近衞の日記には、武漢在住の日本人一同は領事館に集まり、午前10時から祝賀の儀式を行ったとある。それは厳粛なものだったであろう。だが、式の後は立食パーティーとなり、福引などがあって、領事館の外では爆竹が鳴らされ、狼煙が打ち上げられたとある。「立食後、芝生にて運動会の催ふしあり。綱引競争、袋ぬけ競争、角力(すもう)、撃剣等なり」。かなりの賑やかなお祭り行事だった様子が窺える。

当日の領事館は在留日本人の手で飾り付けがなされていた。階上の一室には「千古奇珍笑覧会」というコーナーがあった。そこにはマッチ一箱が置かれ、「以火徳王」との説明書きがあった。また、「函関鶏鳴」として鶏卵一個が置かれ、「今存其卵而已」と記されていたという。これを即座に理解できる近衞はさすがに明治の教養人である。

張之洞との会見は4日に行われたが、その内容は拙著で紹介しているので、ここでは詳述しない。ただ、近衞は張が教育に熱心なことは評価しながらも、その屈折した政治姿勢には辟易したことだけは述べておこう。彼は張に投機的な傾向を感じたのかもしれない。

要人との会見が終われば、後は物見遊山の日々となる。9日には蘇州に行き、有名な園林である留園を訪れた。留園は太平天国の乱で荒らされたが、盛康が大規模な改修を行い、当時は息子の盛宣懐の所有となっていた。近衞によれば、「五歩に一楼、十歩に一閣、其広大なる、一見の値ありといふべし」とされている。次に訪れた寒山寺では、「楓橋夜泊」の詩を刻んだ石碑を読もうとしたが、摩滅していて判読できなかったという。

その夜は蘇州在住の日本人との宴会が開かれ、献酬が続く中で近衞は前後不覚の酩酊状態となってしまったようだ。酒豪の彼にしては珍しいことだ。近衞が宴会好きであることはどこかで述べたと思うが、面白いことはその座にいた芸妓たちの名前をいつも日記に書きつけていることである。彼はその都度に彼女らの名前を聞き出していたのだろうか。そうだとすれば、大変マメなことである。

11月14日、近衞一行は杭州に到着した。夕食の際、「旅中の一興」として、同席の日本人たち銘々に中国人名を付け、杭州滞在中は互いにその名で呼ぼうということになった。まず、近衞は康錫珊にした。「公爵さん」だからだ。大内暢三は近衞の御随行の身分ゆえに呉瑞光。白岩龍平は晋渾。当時彼は新婚だったらしい。大阪朝日新聞特派員の牧巻次郎は新聞屋だけに晋文也。香月某は翁虞雷。一番の健啖家すなわち「大食らい」であったためだ。さらに、領事代理の速水一孔は梁時大とした。

近衞のユーモア、ここに極まれりという感じがする。日記には「笑声絶へざりし」とあるから、皆で大笑いしながら名前を考えたのだろう。しかし、これを日本語の発音で呼んでも大して面白味がないような気がする。果たして、彼らは中国語の発音で呼んだのだろうか。もしそうだとすれば、近衞の中国語を聞いてみたかったものだ。

帰国を前にした17日、近衞は上海で当地の名士に食事に招かれた。中国での最後の宴席である。この時の料理には感心したようだ。料理は広東風でありながら濃厚に過ぎず、北京の白菜、広東の家鴨、江西の蜜柑、山東の林檎など各地の名産を取り揃えていた。また、蛙の胃の料理があり、近衞は「佳味という迄にはあらざるも又面白し」と書いている。グルメ近衞としては、最後まで満足の行く食事であった。

18日に上海を発った一行は19日に長崎、22日には神戸に入港した。近衞の海外視察の旅はここに終わった。公務も順調にこなし、余暇も楽しんだ7ヵ月間であった。

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