第389回 記者から作家・大学教師に転身された塚本哲也さん 伊藤努

第389回 記者から作家・大学教師に転身された塚本哲也さん
10月26日付朝刊各紙の社会面の訃報欄に、筆者が学生時代に知遇を得た元毎日新聞記者、塚本哲也さんの逝去を伝える記事が掲載され、生前の出会いや優しい人柄をしのびながら静かに冥福を祈らせていただいた。
87歳で他界された塚本さんの経歴や生前の膨大かつ壮絶な仕事ぶりについては後で触れるとして、まず、40年前にさかのぼる出会いを振り返りたい。
筆者が学生だった1976年、たまたま縁があって大学卒業までの1年間、毎日新聞社編集局でアルバイトとして働く機会があった。その年の初め、政財界を巻き込む大疑獄に発展することになるロッキード事件が米国で明るみとなり、わが国のメディアは事件の展開をめぐって激しい報道合戦を繰り広げた。その中でも毎日新聞は「ロッキード報道の毎日」と言われたように、多くの特ダネを連発した。
東京・竹橋にある毎日新聞東京本社の編集局は活気に満ちており、筆者はその末席でデスク補助の仕事に従事していた。国際ニュースを扱う外信部畑を長く歩いてきた塚本さんは当時、ロッキード報道には直接タッチされていなかったが、編集委員として自由な取材活動を続けていた。たまたま、職場が隣り合っていたので、時間的余裕があるときなどに特派員時代の経験を聞かせてもらった。筆者が当時、大学でドイツ語と国際関係論を専攻し、将来は報道の世界で仕事をしたいと口走ったことを覚えておいでで、ご自身の取材経験などの話をされたのだろう。
それから10年後。筆者は通信社の西ドイツ特派員として支局のあるハンブルクに駐在していたが、確か1987年の晩秋、毎日新聞を中途退社され、物書きになられた塚本さんから支局に連絡があり、一晩、お供をする光栄に浴した。書きもらすところだったが、塚本さんは記者時代、ウィーン特派員やボン特派員を歴任するなど東西ドイツをはじめとする欧州政治を幅広くカバーされた経験がおありだったのである。
ちなみに、塚本さんは1968年のチェコスロバキアの民主化運動「プラハの春」が当時のソ連軍戦車によって蹂躙(じゅうりん)された事件を取材しており、筆者は偶然ながら、それから21年後のチェコスロバキアの民主化革命「ビロード革命」を現地でカバーし、毎日新聞の先輩記者との奇縁を改めて思ったものだった。
記者の仕事にピリオドを打った後のハンブルク再訪は、特派員時代にはゆっくりとその土地を見聞できなかったので、このように欧州各地を仕事を離れて旅をしているとのことだった。ドイツ北部のハンザ同盟都市として有名なハンブルクは河川港として発展した町であり、港に付きものの歓楽街「レーパーバーン」が観光客の人気スポットの一つだった。しかし、当時のレーパーバーンは、同性者間の性的接触が感染原因らしいとようやく報じられ始めたエイズに対する人々の警戒心、恐怖感があったためか、大通りをはじめ多くの店も人出がなく閑散としており、かつてのにぎわいをご存じの塚本さんは予想もしなかった閑古鳥に驚いていた。
毎日新聞を辞した塚本さんはその後、防衛大学校教授、東洋英和女学院学長などを歴任する傍ら、「ガンと戦った昭和史―塚本憲甫と医師たち」(講談社ノンフィクション賞)、「エリザベート―ハプスブルク家最後の皇女」(大宅壮一ノンフィクション賞)など多くの著作をものした。2002年に脳出血で倒れ、右半身がまひする後遺症が残ったものの、リハビリを兼ねて左手でパソコンを始め、著述活動を再開、「マリー・ルイーゼ」「メッテルニヒ」などを刊行した。朝刊各紙の塚本さんの訃報記事では、肩書はすべて「作家・東洋英和女学院学長」と、筆者が直接は知らない後半生の職業・ポストとなっていた。見事な人生というしかない87年の生涯だった。合掌。