第388回 政治が壁となる遥かなる楼蘭 直井謙二

第388回 政治が壁となる遥かなる楼蘭
第28回「遥かなる楼蘭の記憶」で故平山郁夫画伯に同行しドキュメンタリー番組を制作した思い出を書いた。もう四半世紀以上前の思い出で記憶も薄れ、もう一度楼蘭を訪ねられたらという淡い願を持っていた。
だが2年ほど前、中日友好協会の招待でシルクロードの入り口にあたる西安を訪ねた時、遥かなる楼蘭がさらに遠くなったことを思い知らされた。協会の職員によれば楼蘭を訪ねることができるのは中国人でもごく限られた専門家だけだということだ。中国政府は楼蘭を一段と厳しい管理下に置いているようだ。
その理由は2つあってひとつは外国人の専門家や観光客が楼蘭の遺品を持ち去る懸念があることだ。楼蘭遺跡は茫漠たるタクラマカン砂漠に位置し、上空から見ても専門家でなければただの砂漠と遺跡の区別ができない。遺跡には住居跡や司令部が点在し、ペルシャなどから運ばれたと思われる宝石のかけらが落ちている。取材中にしゃがんだりすると監視委員が飛んできて何か拾わなかったと詰問される。中国政府が長い間に貴重な遺品が外国人に持ち去られたことに対する被害意識は相当強い。取材直後は楼蘭観光のパンフレットを見ることがあったが、最近は目にしない。

もうひとつは中国政府がウィグル族など少数民族の動きに神経質になっていることが考えられる。経済発展と共に漢民族の進出が続き、昔から住むウィグル族との間で確執が激しくなっている。外国人の目に触れさせたくないという中国政府の思惑が見え隠れする。
一方で四半世紀前まで楼蘭に行くにはヘリコプターか四輪駆動のジープでヤルダンが続く砂漠を走破する以外になかった。ひとたび砂嵐に見舞われれば1メートル先が見えなくなり旅人は命の危険があった。
6世紀インドへと旅した求法僧、法顕は「砂漠には悪鬼熱風多くあり、遭えばたちまち皆死して一人として全ものなし。行く手を探しても目標すらなし。ただ死人の白骨をもって標識となすのみ」とタクラマカン砂漠の砂嵐の凄まじさを詠んでいる。
今はタクラマカン砂漠を横切る高速道路が完備され、交通は早く安全になった。
しかし中国政府の政治的な政策や国際間の信頼の欠如で楼蘭には行けなくなってしまった。
玄奘三蔵が16年の歳月をかけてインドへと旅した時はシルクロード沿いの西域の国々の手厚い保護が支えたという。習近平政権の掲げる一帯一路政策が単に経済だけの協力だとすれば寂しい限りだ。
写真1:楼蘭遺跡は茫漠たるタクラマカン砂漠に位置している
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