第362回 記者に変身したミャンマーの運転手 直井謙二

第362回 記者に変身したミャンマーの運転手
3月末、民主化指導者スーチー氏が実質的に率いる新政権がミャンマーに発足した。1988年の民主化を求める学生らによるデモや90年代末の自宅軟禁中のスーチー氏を取材していた時には想像もできない展開だ。
取材ビザの発給拒否や取材テープの押収それに官憲による暴力などを経験しミャンマーは永遠に民主化されないと悲観的な見通しを持っていた。軍事政権が制定した憲法の改正など残された問題は多いが、民主化に向けて確固たる一歩を踏み出したのだ。
一方、専属の現地記者という身近なJ氏も成長した。初めてJ氏に会ったのは97年、ヤンゴン空港のホールだった。取材の折に雇う現地の臨時運転手として前任者から引継ぎがあった。筆者の名前を書いたプラカードを持ち、ミャンマーの民族衣装であるロンジンを履いた中年の男が立っていた。
早速取材に出かけると、彼は運転以上にさまざまな知識を持っていることが分かった。ほぼ完ぺきな英語のほかにタイ語も話す。筆者も9年間バンコクに駐在したこともあって多少タイ語を話すがJ氏のレベルは高い。
以来運転以外に学生による民主化要求デモや軍政の会見それに黄金の三角地帯に近い山間のけし畑の取材などに同行してもらった。(写真) 身の上を聞いてみると名門ラングーン大学(現ヤンゴン大学)を卒業したものの、経済制裁を受けていた当時のビルマには仕事がなかったのだそうだ。

折しも隣国タイは高度経済成長期に入り建設ラッシュ。タイで建築労働者として働くうちに仲間のタイ人の労働者からタイ語を習ったという。当時、ミャンマーには専属記者がいなかったので運転手兼記者で働く気がないか尋ねると二つ返事で快諾してくれた。
軍政下では報道は厳しく規制され、記者になるには国の許可を取らなくてはならない。申請書提出後、雇用する筆者と共に軍政による面接が必要だった。エアコンもないバラックで2時間も待たされ、ようやく面接が始まった。
「つかんだ情報が国益に反する場合、隣の雇用主に報告するか?」軍人の声高な質問がJ氏に飛ぶ。
「無論国益を優先し、雇用主には報告しません」J氏が答える。無事面接が終わり現地記者として雇用できた。面接後のJ氏のウィンクが忘れられない。
現在、J氏はミャンマー記者界で重要なポストにつき、バンコク支局にはなくてはならない存在だという。民主化に向けてのミャンマー情勢の読みは間違えたが、J氏の能力の読みは外さなかった。
写真1:黄金の三角地帯に近い山間のけし畑
《アジアの今昔・未来 直井謙二》前回
《アジアの今昔・未来 直井謙二》次回
《アジアの今昔・未来 直井謙二》の記事一覧