第330回 古代からの夢、マレー半島横断(2)直井謙二

第330回 古代からの夢、マレー半島横断(2)
タイ領・クラ地峡のシャム湾側、チャイヤ海岸は南部の都市スラタニーの北50キロにある。90年代の初めにチャイヤ海岸を訪ねたが、チャイヤ海岸には無数の陶器の破片が転がっていた。唐に朝貢していたシュリービジャヤの首都とされるチャイヤは国際貿易の拠点だった証拠だ。ヒンズー化されサンスクリットを使用していながら唐に朝貢していたシュリービジャヤの柔軟でしたたかな外交姿勢が浮かび上がる。シルクロードの要衝として国際貿易の拠点として栄えた姿も垣間見える。はるばる唐から船で運ばれた陶器も台風などに遭遇すれば多くが壊れてしまう。
1世紀、インドシナ半島に最初に形成された国家、扶南の貿易拠点であったオケオの遺跡からも土器が出土することはすでに書いた。(318回「拍子抜けした前アンコール遺跡」)(写真)チャイヤ海岸に転がる土器や陶器の破片も、使用不能になったものを捨てたと考えられる。この先、難所のマラッカ海峡を航行するよりマレー半島を横切りたいと思うのは古代人も中国をはじめとする現代人も同じだ。

NHKが80年代に放送した番組「シルクロード」でもマレー半島の横断を実際に実験していた。クラ地峡の山道を小型の船を引っ張りながらマレー半島を横断した。番組は山道を行くことは困難で船が壊れたことを紹介していた。
筆者もシャム湾側のチャイヤからアンダマン海側に向け山道を車で走ってみたが、とても重い陶器や船を運べるとは思えなかった。積み荷と船を陸揚げし、シャム湾からアンダマン海まで陸路で運ぶという古代人の夢には無理があった。
土木技術が発展した近代に入り何度か運河建設が試みられた。しかし各国の思惑が交錯するようになり今度は政治的に難しくなってきた。例えばシンガポールを金融や植民地支配の拠点と定めたイギリスにとってマラッカを素通りされることは利益につながらない。
70年代に入ると原爆を使ってマレー半島を破壊し、運河を建設しようという乱暴な意見も出たが無論実現しなかった。クラ地峡に運河を造るという構想を中国もタイも否定しているが、日本にとっても航行の短縮と安全確保がかかっているだけに無視できない。
習近平政権が中国の夢を実現するために打ち出した海のシルクロードの再建。クラ地峡運河建設の前に南シナ海が危険な海峡と化し、海のシルクロードどころではなくなることを避けるほうが先だ。
写真1:オケオ遺跡から出土した土器の破片
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