第634回 『近衞忠煇人道に生きる』を拝読して(その2) 直井謙二

『近衞忠煇人道に生きる』を拝読して(その2)
分離手術はベトナムのツヅー病院で行うことが決まり、日本からは麻酔医だけが派遣されることになった。これで日本赤十字社の手は離れたと認識していたが、手術の裏側では様々な支援が続いていた。
麻酔に関する医療設備を日本からベトナムに送りたくても東西冷戦の構造下では共産圏への輸出規制に抵触するためスエーデンから調達したという。支援にまつわる壁について現場にいながらレポート出来なかったことが残念だ。
「88年10月の分離手術室、冷房がなく猛烈な暑さだった」と書かれているが、筆者も「猛烈な暑さです。37度です」と現場レポをしたのを覚えている。また、「全国から集められた70人のベトナムの医師の手腕が優れていた」と書かれているが、筆者も同じ印象を持っていた。特に北ベトナムの軍医だったアー医師のてきぱきとした執刀は目立っていた。アー医師は負傷した北ベトナム軍兵士の施術で多くの経験を積んでおり臨床例は群を抜いていた。主治医のフォン博士がガラス越しの記者団に両腕を開いてベトちゃんドクちゃんの分離手術の成功を示すと記者団席からは歓声が上がった。手術室から出てきたフォン博士をインタビューしたが、夢中だったのでベトナムの雑誌記者から逆に取材されていたことに全く気が付かなかった。(写真)日赤のリードで日越が一体となったベトちゃんドクちゃんの分離手術は見事に成功したのだ。

ポル・ポト政権が崩壊した1979年のわずか数か月後のカンボジアの首都プノンペンの訪問も感銘を受けた。ベールに包まれていたポル・ポト政権下では100万から200万人の市民が虐殺されたとの噂が流れていたが、ポル・ポト政権が鎖国政策を採っていたため当時は実態がよくわからなかった。ポル・ポト政権を崩壊させたのはベトナムの支援を受けるヘン・サムリン政権だが、国際社会がヘン・サムリン政権はベトナムの傀儡政権であるとしてベトナムを非難していた。そして、日赤によるカンボジア支援を日本の国会議員も非難したという。
6年後にヘン・サムリン政権の招聘で運よくプノンペンを訪れた筆者も政権側の説明を半信半疑で取材した。200万人もの国民を虐殺できるかと疑う一方、ベトナムの侵攻は確かなものだった。しかしヘン・サムリン政権が案内したツールレーン処刑場に積まれた数個の人骨の山と学校を改造した収容所を見た時、虐殺は事実だと確信し震えが来たのを覚えている。著書によれば14人いた赤十字幹部のうち13人が殺害されたという。後に筆者もアンコール遺跡の取材をした時に遺跡の専門家が2人しか残っていないことを知ったのである。