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第632回 『近衞忠煇人道に生きる』を拝読して(その1) 直井謙二

第632回 『近衞忠煇人道に生きる』を拝読して(その1) 直井謙二

『近衞忠煇人道に生きる』を拝読して(その1)

中央公論から発行された『近衞忠煇人道に生きる』を拝読した。(写真1)
日本赤十字社の近衞忠煇名誉会長の人道に尽くされた活動が、一部筆者の取材活動と重なることや霞山会の名誉会長に就任されていることから親近感と感銘を受けた。近衞会長の行動範囲と実績は目を見張るものがあり、アジア各国を取材した筆者も舌を巻く。年齢的なこともあって近衞会長の活動開始は1970年代からだ。

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1980年代半ばから活動を始めた筆者はインドシナ諸国の一部は懐かしさすら感じる。そのひとつがベトナムの結合双生児ベトちゃんドクちゃんのことだ。80年代末に何度もホーチミンのツヅー病院で近衞氏とお会いした。当時、近衞氏は日赤の外事部長としてベトちゃんドクちゃんの救援活動のリーダーを務められていたが、筆者も結合状態から分離手術そしてドクちゃんの成長までを取材したことなどから度々インタビューをさせていただいていた。

拝読後新たな情報を得た。著書によればメディアがベトちゃんドクちゃん2人のいたいけない状況を伝えたことが世論を動かし日赤の支援のきっかけになったという。ベッドの上に這い上がる結合状態の2人や米軍の散布した枯葉剤の影響などを取材した事が微力ながら支援開始への橋渡しの一部になったと自己満足している。(写真2) 

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 日赤医療チームの懸命の治療でも脳を患うベトちゃんの様態は改善しなかった。治療に使われたのはかつての宗主国フランス製の薬剤で、古く効果が薄かった。日赤医療チームが持ち込んだ日本製の薬剤に切り替えると様態が回復したことを覚えている。

本格的な治療のためベトちゃんドクちゃんを日本に移送する日航機がベトナム戦争後初めてホーチミンのタンソニュット空港に到着した。ベトちゃんドクちゃんや日赤医療チームそれに日本記者団を乗せ、日本に向けて飛び立つ日航機を背景に治療の経過をレポートし衛星伝送するため筆者はホーチミンに残った。

日航機は他のベトナム機と比べ大きく綺麗だったが、すでに退役した機体だったという。医療機器を機体に積み込むなど当時の日赤医療チームの努力が想像以上に膨大なものであったことを35年後に著書から初めて知った。

2人の分離手術は日赤医療チームを始め日本側が苦慮したことは聞いていた。臓器の一部はひとつしかなく、ベトちゃんとドクちゃんのどちらに移植するかなど倫理上の問題が取りざたされ日本で手術することは困難だと聞いていた。さらに東西冷戦構造の下、政治的な壁があったことも著書を読んで初めて知った。

(その2)につづく


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