第98回 ほろにがいカラチのビール 直井謙二

第98回 ほろにがいカラチのビール
アジアを取材していると、さまざまな困難にぶつかる。
砲撃をかいくぐってスクープを取る戦場カメラマンが遭遇する危険、マラリヤやデング熱などの感染症の心配などはよく知られている。臆病だったからか運が良かったからか、18年間のアジア取材で命にかかわるような問題には縁がなく、いい思い出だけが脳裏に焼き付いている。
だが、今でもイスラム圏の取材で酒が飲めなかった辛さだけは時々思い出す。40度を超す炎天下を長時間歩いたり、零下15度のテントの中でじっと夜を過ごす過酷な取材でも、一杯のビールを飲み、眠れば翌日は再び元気で取材が続けられる。
イスラム圏でもサウジアラビアのように全く飲ない国なら最初から覚悟しているが、パキスタンのようにグレーゾーンの国は悩ましい。
パキスタンでは、表向き、酒は無論禁止だ。ラマダン中で昼間の食事も苦労する取材を終え、カラチ経由で支局のあるバンコクに帰ることになった。
航空便の乗り継ぎの関係でカラチに3泊しなければならない。(写真) 徹夜が続く仕事もつらいが、仕事もなくホテルでひたすら時間が過ぎるのを待つのも厳しい。

あまりに退屈なのでホテルガイドのページをめくっていると、「個室でならイギリスのビール飲めます」という文章に目がクギ付けになった。思わぬところでかつての宗主国イギリスの影響が残っていた。
ホテルのキッチンに電話で注文すると、しばらくしてドアをノックする音がする。勢いよく部屋のドアを開けると、ボーイが立っているが、ビールは持っていない。
ビールはどうした、と聞くと、ビールを提供するには事前にイスラム教徒ではないことを証明するためのパスポートの写しと、政府への要請文にサインすることが必要だという。ボーイが差し出したパキスタン政府への要請文を読むと、「アルコール中毒患者であり、飲まずには生活できないことを認めた上で酒を提供することを要請する」と書いてある。ひどい文面に怒りがこみ上げ、ボーイを追い返した。
怒りが収まると、要請文にサインしたところで日本では何の意味も持たないと言い訳しながら、再びビールを注文した。別のボーイが来るようにと願う期待は裏切られた。アルコールを管理するボーイは決まっているという。
要請文へのサインは注文のたびに必要なので、「事前に何枚かサインしておいた方が便利ですよ」というボーイのアドバイスに素直に従った。20年以上前の要請文はすでに破棄されていると思いたい。
写真:英語の看板が目立つカラチ市内
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