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第519回 人間国宝から聞く「漆」の文化世界 伊藤努

第519回 人間国宝から聞く「漆」の文化世界 伊藤努

第519回 人間国宝から聞く「漆」の文化世界

漆(うるし)と言えば、たいていの日本人ならば、身近なお椀や硯箱などに使われていることや、伝統的な工芸作品として美術館に展示されている漆器・蒔絵(まきえ)を思い浮かべるのではないか。黄色がかったドロドロした樹液の漆を樹木から採取して、それを工芸作家や職人が漆塗りとして使っている光景なども映像で見たりした経験がある方もおられよう。筆者も漆についてはその程度の知識、見聞がある者だが、最近機会があって、漆芸家で、漆で文様を描いて金銀粉を蒔きつける「蒔絵」の世界で人間国宝というこの分野の第一人者の室瀬和美氏の講演を聞いた。「漆の文化」と題する1時間ほどの映像付きの講演では、聞くこと、見ることの多くが初めて知ることのような驚きの連続だったので、奥行きの深いお話の中で印象に残った見聞、そのさわりの一端を紹介したい。

そもそも、漆を使った土器など漆器の歴史は、中国では7000年前、日本では5500年も前にさかのぼることがいろいろな遺跡で発掘された出土品から分かっているという。科学技術の手法も使って考古学という学問が現在のように発展するまでは、日本における漆文化の起源は有史前後となる3-5世紀の大和朝廷の成立以降のこととみられていたが、福井県にある貝塚の遺跡から出土した漆土器は5500年前の縄文時代のもので、もしかしたら1万年前近くにさかのぼる漆塗り土器が見つかる可能性もあるという。

次に、漆文化のある地域だが、漆の樹木が育つのは世界広しと言えども東アジアのモンスーン気候地帯だけに限られ、採取される樹液の種類・系統によって、▽日本を含む中国などの東アジア▽インドシナ半島のベトナムおよびその周辺地域▽タイ・ミャンマーなどの地域―の三つが主要生産地帯だ。日本では現在、使用される生漆の95%が主要生産国の中国などからの輸入に頼っており、日本産の生漆の生産量は全体の5%にとどまっているといい、品質の高い貴重な日本産の生漆は文化財となっている漆芸品の維持・保存に回されることが多いそうだ。

漆文化の入門・解説の冒頭で室瀬氏は、「漆」という日本語について大変興味深い話をされた。その一つは、「漆」という字は、樹木の名前で唯一、漢字のつくりの「木へん」が付かない木であり、この漢字の意味は「木を掻き取ると、液体(樹液)が出てくる」ということから漢字のつくりに水を意味する「さんずい」が当てられたのだという。「なるほど!」と納得すると同時に、漢字のつくり・意味合いの奥深さに触れた思いがした。
 さて、世界に誇る日本の漆芸の伝統を物語るかのように、英語の辞書で「URUSHI」と引くと、主要な意味である漆の訳語と同時に、「日本」という意味も紹介されている。つまり、日本人は全く意識していなかった「漆」の意味合いが、英語が使われている欧米世界では「日本」と同義であるということだ。これも新たな発見、知見だった。

人間国宝である室瀬氏の蒔絵の貴重な制作過程やその技術の手法については、映像での紹介だったので、本欄では省かせていただくが、室瀬氏が幹部を務めておられる公益財団法人「日本工芸会」では毎年、日本の伝統の美や伝統の技を鑑賞してもらう場として「日本伝統漆芸展」を開催しており、この伝統漆芸展をご覧になることをお勧めしたい。

室瀬氏が講演で力説されていたのは、日本で長年にわたり脈々と受け継げられてきた漆工芸の蒔絵の芸術性が文化の異なる欧州などで高く評価される一方で、漆を使ったお椀などの漆器製品が普段の生活から少しずつ失われていき、瀬戸物やガラス・プラスチック製の食器や置き物に取って変わられていく漆器文化の衰退の動きに対する懸念だった。

一つの例を挙げれば、漆器のお椀は日本人の日々の食生活に欠かせないご飯やみそ汁など温かい食材の温度を保つ機能に優れていて使われていたが、ご飯をお椀で食べる習慣は徐々に廃れ、瀬戸物の食器を使う人が増えている。日本語の「お茶碗」は文字通り、お茶が冷めないように使われてきた漆器の茶碗だが、登山家として知られる三浦雄一郎氏らは、エベレスト登山には欠かせない携行品として、寒冷の高山地帯でもご飯とみそ汁が冷めにくい特注品の漆器製の茶碗の製作を室瀬氏に相談し、見事に完成させたというエピソードも紹介していた。

最後に、日本古来の伝統芸である蒔絵が現代最先端のデジタル製品にも使われている事例を紹介するが、スマートフォン(携帯用多機能電話)の特注品を製造している欧州企業の経営者から室瀬氏に依頼があったのは、世界で4台しか作らないスマホの外側部分に春夏秋冬の季節感を表現した蒔絵を描いてほしいというものだった。人間国宝の室瀬氏が蒔絵を描いた特注品のスマホは1台当たり2000万円と極めて高価だったが、いずれも完売したという。伝統の美を受け継ぎながらも斬新さを併せ持つ蒔絵の芸術性を理解し、それに大金をはたく愛好家が世界にはいるということだ。

 

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