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人間国宝のお笑い芸人呉兆南と台湾の相声(中) 戸張東夫

人間国宝のお笑い芸人呉兆南と台湾の相声(中) 戸張東夫

<国民党軍が相声を台湾に伝えた>

もし中国の内戦がなかったら、もし国民党軍が負けなかったら相声はおそらく台湾にやってこなかったかも知れない。

1945年日本軍が敗北すると、それまで共同で抗日戦争を戦っていた中国共産党と国民党による主導権争いが始まり、中国全土を巻き込む内戦に発展した。内戦に勝利した共産党は1949年北京に中華人民共和国を樹立、敗れた国民党軍は台湾に脱出した。当時軍人,軍属、公務員、教員など二百万人が難民として台湾にやってきた。このうち軍人はざっと六十万人といわれるが、これら軍人が、いやもっと正確にいうと軍所属の演芸隊が相声を台湾に運んできたのである。


 
呉演芸隊は将兵の慰問を任務とする組織で、相声だけでなく、京劇、越劇(浙江省の地方劇)、豫劇(河南省の地方劇)などもできるので軍内では引っ張りだこだったという。演芸隊は当初台湾各地に展開する部隊を回り慰問公演をしたり、軍内の演芸大会やコンクールに参加するなどもっぱら軍内で活動していた。

1950年朝鮮戦争が始まると、これを機に米国が国共内戦に介入、双方の戦闘行為を抑え込んだことから、台湾社会はようやく落ち着きを取り戻し、演芸隊の隊員たちも自分たちの身の振り方を考えなければならなかった。こうして新たな生活と活動の場を台湾社会に求める者、ラジオや舞台で芸人として生きていこうという者が次々に軍を離れていった。これらの芸人とともに相声も軍から台湾社会へと歩み出したのである。だが相声が台湾の人々に受け入れてもらうには大きな障害があった。中国東北地方で生まれた話芸である相声は北京話(普通話)で語る。一方当時台湾の人たちは閩南話か日本語しか分からなかったのである。この言葉の壁をどのように乗り越えるのか。相声とは全く関係のないところで問題が解決された。国民党政府が北京話(台湾では国語という)普及運動を強力に進め、方言も日本語も禁じてしまったのである。相声が台湾に根を下ろす環境がこうして整ったわけである。

<相声芸人の多くは軍演芸隊出身>

戦火が収まった台湾では人々は娯楽を求めていた。当時庶民の娯楽といえば映画かラジオぐらいしかなかったから相声は人々に歓迎された。手軽で料金も手頃だったからだ。もっとも初めのうち相声を聴いて楽しんだのはやはり戦後中国から来た人たちが多かったに違いない。50年代初めには台北の「楽園書場」「蓮園夜花園」「紅楼」を初め次々に書場とよばれる演芸場がオープンした。ラジオで相声を楽しむファンも多かった。なにしろラジオなら入場料が要らないからだ。「あの当時相声番組の有る無しは放送局にとって大きな問題だった。もし無かったら大変だ。聴衆から厳しい抗議や放送しろという要求が殺到するに違いないからね。」当時を知る相声芸人はこう証言する。

当時相声を語っていた芸人の多くが演芸隊の隊員OB だったのは言うまでもない。魏龍豪、陳逸安、丁長華、胡覚海、張復生、謝君儀、馬元亮ら当時の売れっ子芸人の名前を挙げてみると、すべて軍出身者である。(呉兆南は後述のように例外的に民間人だった。)台湾の相声は軍出身者によって支えられていたのである。これは台湾の特殊事情によるものだ。だが軍出身の芸人の多くは、プロでもなく、相声が好きというわけでもなく、生活のために相声を語っていた。したがって転職したり、脱落する者が後を絶たなかった。そんな中で呉兆南と魏龍豪は相声芸人の人生を貫き、相声の普及と発展に努力し、台湾の笑いの話芸の一つとしての相声の地位を確立した。この二人の努力がなかったら、台湾の相声はとっくの昔に消滅していたに違いない。

<呉兆南と魏龍豪の相声人生>

呉兆南と魏龍豪も他の演芸隊員たちとほぼ同時にプロとして相声を語り始めた。二人も50年代初め放送局の相声番組のレギュラーに採用され頭角を現した。毎回この番組の冒頭二人が開口一番「呉兆南、魏龍豪 上台一鞠躬(舞台の上からご挨拶)」といったのがファンの間で流行語になった。今でも相声の「まくら」としてこの挨拶について語るのを聞いたことがある。二人の人気の根強さを感じさせた。

二人の相声人生にしても他の芸人同様常に順風満帆だったわけではない。50年代末ごろから相声人気にかげりが生じたことから、相声だけでは生活を維持することが出来ず、二人とも副業のため舞台に立つことの出来ない時期もあった。それに労働条件も劣悪であった。放送局の番組でも、いちど録音すると、それを無断で繰り返し放送して、一銭も支払ってくれないということがあった。著作権など全く無視された時代だった。

二人は1951年台北の書場で初めて対口相声を語った。二人はそれ以後コンビを組んだが、それは1999年に魏がガンで亡くなるまで続いた。このコンビが 語った相声は三百余に上る。これらは全て『相声集錦』『相声選粋』『相声補軼』『相声拾穂』と題する相声集四巻、CD四十八枚に収録、発行されている。これほど多くの公演記録を残した者は本家の中国でもいないのではあるいまいか。二人は「いちばん長い期間相声を語り続け、台湾の相声に最大の貢献をした」と呉兆南劇藝社の劉増鍇(リュウツォンカイ)氏は語る。

二人が語ったのはほとんどが伝統相声であった。それも二人が北京で聴いたものを出来るだけ元のままのかたち、そのままの味わいで復元することに心を砕いた。筆者がたまたま聴いた相声はこのような努力の結晶だったのである。中国との交流が禁じられていた当時、伝統相声の脚本や資料を入手するのに苦労したに違いない。


写真1:2014年1月呉兆南誕生記念米ロサンゼルス公演で舞台に立つ呉さん(左)



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