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人間国宝のお笑い芸人呉兆南と台湾の相声(上) 戸張東夫

人間国宝のお笑い芸人呉兆南と台湾の相声(上) 戸張東夫

<人間国宝のお笑い芸人呉兆南と台湾の相声>

我が国でいまブームになっている落語や漫才によく似た笑いの話芸が中国でも昔から人々に愛され、いまや国民的な大衆芸能になっている。相声(シアンション)である。相声はもともと中国の話芸だが、中国現代史のいたずらから意外なときに、意外な人たちによって台湾に伝えられた。わずか七十年前のことだが、面白いことにいまやまるで台湾土着の話芸のように台湾のエンターテイメントの代表格の一つとみなされ、広く台湾のファンに笑いをもたらし、支持されている。中国の標準語普通話(プウトンホア)で語る相声が方言閩南話(ミンナンホア)を使う台湾にかくも短い年月の間に受け入れられたのにはさまざまな要因があろうが、呉兆南(ウゥチャオナン)と魏龍豪(ウェイロンハオ)という二人の相声芸人の奮闘、努力があったからだといってよいであろう。


 
魏龍豪は十九年前に他界したが、残った人間国宝の呉兆南がこの(2018年)10月半ば九十三歳でなくなった。台湾相声の象徴である呉の突然の死に中国と台湾のファンは大きなショックを受けたに違いない。台湾政府もその死を悼み、「台湾にとって大きな損失である」という声明を発表した。筆者も数年前台北と米ロサンゼルスで舞台の上の呉を拝見し、また直接お会いしたことがあるだけに、突然の訃報に声もない。呉の冥福を祈るとともに、我が国のマスメディアではほとんど取り上げられたことのない呉の功績や台湾の相声についていささか語ってみたい。

<相声は中国東北地方で盛んになった>

相声は歴史ある中国の笑いの伝統話芸である。相声をふくめ小人数で語ったり歌ったりする大道芸のような大衆芸能を総称して曲藝(チュウイィ)、とか説唱藝術(シュオチャンイィシュ)という。

さて相声は演者の人数によって三つに分けられる。一人だと単口(タンコウ)相声、二人だと対口(トォイコウ)相声、三人またはそれ以上だと群口(チゥンコウ)相声とよばれる。いずれも演者は舞台に立ったままで話を聴かせる。演者の数や見た目で我が国の話芸と比べると単口相声は立ったままだが落語、または漫談、対口相声は掛け合いで語るからまさに漫才そのもの、群口相声になるとコントに似ている。とすると相声は我が国の落語、漫才、漫談、コントなどを総合した笑いの話芸というべきかも知れない。またこの三つの相声のうち対口相声がいちばん多く、ポピュラーだという。

相声は清朝末期、第九代皇帝咸豊帝在位の時期(1850~1861年)北京、天津を中心とする中国東北地方で広まり、発展したといわれる。実は相声の起源については諸説あるが、ここでは通説に従った。いまからざっと百五十年前ということになろうか。これだけの歴史があるから共産党政権の中華人民共和国が発足した1949年ごろには相声も国内で広く語られ、落語で言うところの「まくら」「主題」「落ち」などの基本形や語りのスタイルなどはある程度出来上がっていたようである。中国当局が1949年以前の相声を伝統相声(古典相声)、それ以後に作ったものをすべて新作相声と区別したことからもそのことがうかがえよう。

<中国共産党政権は伝統相声が嫌い?>

伝統相声はすべて専制王朝の清朝末期から清朝崩壊後の中華民国時代に作られ語られたものだから、共産党政権から見ればどうしても封建的、あるいは資本主義的な要素が強すぎて新中国にとって好ましくないということになってしまう。権力者や金持ちを敬ったり、へつらったり、また貧しい人たちや農民を見下したりする作品が少なくなかったのだから無理もない。このためごく一部の伝統相声を部分的に改作して上演を許可したものの、伝統相声の多くを禁止してしまった。こうなると芸人の方でも伝統相声を敬遠するようになり、その結果伝統相声を語るものも少なくなり、伝統相声そのものが姿を消してしまった。

中国の新政権はもともとエンターテインメントである相声を政治宣伝の道具、イデオロギー教育の手段と考えていたのである。このため新作相声が数多く作られたものの、娯楽性に欠けた、相声本来の笑いや楽しみを十分に味わうことの出来ないものが主流になってしまったのである。このため伝統相声を聴くことができなくなってしまったというのが中国相声ファンである筆者の実感だった。

このような状況は新人相声芸人郭徳綱(クォトォカン)が伝統相声ブームを巻き起こした21世紀初頭まで続いた。中国共産党中央機関紙『人民日報』は2009年7月10日付けの文化面の相声特集で「長い間伝統相声を聴くことの出来なかった今日のファンたちも、伝統相声の面白さに改めて気がついた、といったところである」と報じた。だがこれは筆者が相声を聴くようになってからずっと後のことである。

<台湾の録音テープに伝統相声>

筆者が中国相声に関心を抱き、ファンになったのは1980年代半ば、新聞社の特派員として香港に駐在していた時のことだ。筆者は学生のころから落語や漫才など我が国の笑いの伝統話芸の大ファンだったので、中国の笑いの話芸にのめりこんでいくのはごく自然な成り行きだった。相声ファンになったといっても相声芸人の名前も顔も、作品のタイトルにもそれほど通じていなかったので、中国に行く機会があると手当たり次第に相声の録音テープ(当時は音源はこれしかなかった)を購入し、繰り返し聴いていた。ほとんどが新作相声だった。

前述のように改作により当局が許可した伝統相声がないわけではなかった。筆者も国民的相声芸人侯宝林(ホウパオリン)が改革に携わった「戯劇雑談」「戯劇与方言」「改行」「売包子」などのよく知られた伝統相声を繰り返し聴いた記憶がある。だがいかんせん数が少なく、ファンの要望に十分応えることは出来なかったのである。面白そうな伝統相声が数多く残っているのに、それが眠ったままになっているのはいくら当局の方針だとしてもファンとしては残念なことである。

そんな不満を抱きながら、十年以上も前に台湾で手に入れた『相声集錦』というタイトルの一巻から十六巻までカセットテープ十六本のセットを開いてみた。魏龍豪と呉兆南の相声五十九作品を収録したものだ。聴いてみて意外だったのはこれまで中国で購入した録音テープにない中国の伝統相声が数多く含まれていたことだ。中国で禁じられたり、改作されたものが台湾では原型のまま残っているのかも知れない。そんな考えがひらめいた。台湾の相声に新たな興味を抱いたきっかけである。それにしても中国東北地方の話芸である相声が、互いに異なる方言のため通じ合うのも難しい中国南部福建省対岸の台湾にいつ、なぜ伝わったのか。そんな疑問も湧いてくるというものである。


写真1:八十八歳という年齢を感じさせない元気な 呉兆南さん(2014年1月米ロサンゼルスの自邸で)



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