第3回「青木周蔵」近衞篤麿が最も心を許した長州人―栗田尚弥
「青木周蔵」近衞篤麿が最も心を許した長州人-
近衞忠煕の回で触れたように、近衞家と薩摩(鹿児島)の島津家は深い関係にあり、近衞篤麿の母も島津家の出であった。言うまでもなく、旧薩摩藩は旧長州藩と並ぶ明治藩閥の雄である。しかしながら、篤麿は終始藩閥には批判的で、政党特に進歩党(後に憲政本党)には好意的であった。彼は、藩閥内閣からの再三の入閣要請にはついに一度ものらず、それどころか貴族院内の会派である三曜会や同志倶楽部を率いて、伊藤博文、山県有朋、松方正義らの藩閥政治家・官僚に対抗した。
藩閥嫌いの近衞篤麿が唯一心を許した藩閥出身の官僚、それが青木周蔵(1844-1914)である。
青木周蔵は、天保15年1月15日(1844年3月3日)、長門国(長州)厚狭郡に村医三浦玄仲の長男(幼名、三浦團七)として生まれたが、22歳の折、長州藩医青木研蔵(維新後宮廷大典医)の養子となった。研蔵の兄は、日本で初めて種痘を行った蘭学者として有名な青木周弼(藩主御側医)である。周蔵という名は、周弼と研蔵から一字ずつとったものである。
養子縁組により長州藩士となった青木は、藩校明倫館で学んだ後、長崎での医学修行を経て1868年(明治元年)、藩留学生としてドイツへ留学した。渡独後、青木は、専攻を医学から政治、経済へと変え、明治6(1873)年帰国後外務省に入省した。その後、明治7年に駐独代理公使、さらに駐独公使となってドイツに赴任、以後、青木は、欧米各国の公使・大使や外務次官、外務大臣を歴任、明治国家を代表する外交官の一人となる。特に、公使、大使としての在欧米勤務は合計21年に及び、そのうち19年は駐独公使としての滞欧である。外務省きってのドイツ通となった青木は、「ドイツの化身」と評され、ドイツの政治や経済、文化に「べた惚れ」であったという(坂根義久「解説」、同編『青木周蔵自伝』)。ちなみに青木の後妻エリザベートは、大恋愛の末結ばれたプロイセン貴族の娘であり(その結果前妻を離縁)、二人の一人娘ハナも貴族出身のドイツ人外交官に嫁いでいる。
近衞篤麿と青木周蔵の関係は、篤麿の留学時代から始まる。明治18年9月25日付の祖父忠煕宛書簡に「公使は青木と申人にて、長州人に有之候。何人か先づ世話致す呉候都合に御座候間、御心配無之様願上候」(『近衞篤麿日記』付属文書)と書いているように、留学中の篤麿にとって、青木は良き相談相手であった。また、弟の英麿と鶴松の留学についても青木は骨を折ったようで、明治19年3月20日付の忠煕宛書簡には、少し前に帰国し外務次官になっていた青木が、「英麿、鶴松の洋行等に付」いろいろと相談に応じてくれるだろう、と述べている。
近衞の帰国後も二人の交友は続き、例えば、明治29年、当時学習院長の職にあった近衞は、再びドイツ公使の任にあった青木に学習院のドイツ語教師の照会を依頼している。また、明治32年4月から11月にかけての欧米及び清国訪問に際して、篤麿は外務大臣となっていた青木の意見を容れ、米国→欧州→清国の順で訪問している。さらに青木外相は、篤麿からの依頼により、東亜同文会の教育事業への補助費を外務省予算から捻出すべく奮闘している。
篤麿と青木には似ているところがある。篤麿が、欧州の政治や経済、文化を高く評価しながら、白色人種の人種主義とそれに裏打ちされた帝国主義に対抗すべく「同人種同盟」を説いたことは良く知られているが、「ドイツの化身」と言われた青木もまた「亜細亜は亜細亜人の亜細亜」と語り、「東亜協同の敵」であるロシアを「東亜より駆逐する」ため中国(清国)との「攻守同盟」を説いている。また、外相時代の明治23年5月には、「東亜細亜列国之権衡」を山県有朋首相以下閣僚に配布し、そのなかで、「欧洲の各強国」の「侵略政略」に対抗すべく、日本を「首班」とした防衛計画策定の必要を強く主張していている(前掲『青木周蔵自伝』)。
明治37年1月、近衛篤麿は他界するが、東亜同文会の会長職を引き継いだのは、他ならぬ青木周蔵であった。この東亜同文会会長在任中に、青木は初代の駐米大使に就任(明治39年~41年)し、明治40年会長職を退いた(後任は鍋島直大)。