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第2回「津軽英麿」兄、近衞篤麿の「同人種同盟論」を批判―栗田尚弥

第2回「津軽英麿」兄、近衞篤麿の「同人種同盟論」を批判―栗田尚弥

「津軽英麿」兄、近衞篤麿の「同人種同盟論」を批判

近衞篤麿には、康子、英麿(ふさまろ)、鶴松(猷麿)3人の妹弟がいる。このうち、弘前の旧大名家である津軽家に入り、その当主となったのが、長弟の英麿である。なお、妹康子(1867‐1944)はのちに徳川宗家を継承した徳川家達(後、貴族院議長)と婚約し、東京千駄ヶ谷の徳川邸で天璋院篤子の薫陶を受け、明治15(1882)年に成婚した。また次弟鶴松(1873-1952)は、叔父(父近衞忠房の弟、近衞忠煕七男)の真宗高田派専修寺第21法主(男爵)、常磐井堯熙の養子となり堯猷と改名、後に専修寺第21法主となり、京都帝大の梵語学教授にも就任、さらに帝国東洋学会を創設した。

近衞家と津軽家の縁は、近衞基前(忠煕の父)の娘が弘前藩10代藩主の津軽信順の許嫁となったことから始まる。結局、この娘は成婚前に早逝してしまったが、忠煕の代に娘信君(忠房の妹)が第12代弘前藩主津軽承昭の後室となった(津軽尹子)。この承昭・尹子の養子となったのが、英麿である。明治34年1月、東亜同文会支部が弘前に設立されているが、多分、近衞家と津軽家の縁によるものであろう。また、英麿の養父承昭は、熊本藩主細川斉護の四男であり、その弟(斉護六男)が、東亜同文会副会長長岡護美である。

近衞家の次男として英麿が生まれたのは、明治5年2月25日(1872年4月2日)のことである。母は側室の石川千佐である。千佐の父石川紹喜について詳細は不明だが、西尾市の岩瀬文庫に所蔵されている『修学院御幸供奉色目』(文政9[1826]年)に石川紹喜(左兵衛権大尉紹喜)の名があるところから、公家の諸太夫であった可能性がある。ちなみに、英麿と弟の鶴松(猷麿、常磐井堯猷)の生年は明治5年3月15日であり(母、側室、詳細不明)、英麿と一か月も違わない。

父、忠房が明治6年7月にわずか36歳で夭折したため、英麿(そして鶴松も)兄篤麿同様、祖父忠煕の下で育てられた。英麿が津軽家の養子になった時期は不明だが、養子縁組成立後も忠煕の薫陶下にあったようである(鶴松も同様)。

明治19年冬、英麿と鶴松はドイツ留学のため日本を離れ、20年1月1日ベルリンに到着した。留学は、『近衞篤麿公伝』に「華族薫育の切要なるを感知し、屡々書を本国に致し、(祖父忠煕に)両君の来学を促したり」とあるように、兄篤麿の強い勧めによるものである。篤麿が年少の二人の留学を勧めたのは、次のような理由があった。

<洋行は一年でも早きが宜敷候。西洋人の日本人を見下るは大人子供の差別無御座候間、大人に成てからは実に堪難き口惜しき事も有之、子供の間なれば其辺も格別気にならず、稽古の為にも宜敷と存候。(篤麿の忠煕宛書簡、明治19年1月15日、『近衞篤麿日記』付属文書)>

欧州に到着した英麿は、まずボンのギムナジウム(高校)に入学、そこを卒業後、さらにボン大学、ベルリン大学、ジュネーヴ大学で学び法律学・政治学および経済学を修め、明治32年の篤麿の欧州訪問の折には、兄に同行している。欧州滞在中、英麿は、註独公使の青木周蔵や留学中の学習院教授中村進午(対露強硬派7博士の一人)らの人士と交わり、留学先のみならず欧州各地を巡り、見聞を広めている。のみならず、欧州情勢に関する詳細な情報を日本に書き送っている。例えば、明治31年3月1日付の篤麿宛書簡では、三国干渉後の中国を巡る欧州列強の動きについて詳述し、日本の外交政策を批判している。

<さて、当時東洋多事、独乙の無法にも膠洲湾を占領せるより魯も旅順、大連を取らんとし、仏にも海南及南部の諸洲に野心あるものゝ如く、英国も近来ソースベリ侯の政略甚だ柔軟にして、他国の為め英のInteressenspäreに進入するを防ぐ能はずと雖も、決して黙然として傍観するものに非ず、必ず舟山島或は其外の土地を占領して、所謂balance of powersを恢復するなるべし。此時に於て日本は如何なる方針を採るべきか?当地の諸新聞は既に独乙の膠洲湾を占領せる時に於て、日本は必ず近き内に為す処あらん事を予言せりと雖も、日本自身は平気の平左衛門、何もなす処なし。(『近衞篤麿日記』第2巻)>

兄篤麿同様、英麿も欧州の文化や社会に強く惹きつけられた。しかし、篤麿が欧州の文化や社会に惹きつけられながらも、欧州(欧米)列強の帝国主義的野望とその裏にある白色人種の人種主義(レイシズム)に対抗するために「同人種同盟論」を説き、東亜同文会を組織したのに対し、英麿はいわば〈名誉白人〉として欧米帝国主義国家の仲間入りすることを主張する。英麿によれば、白人優位の世界は「優勝劣敗」の法則に照らしてもはや「已む得ざる」ものであり、日本はこの現実を直視し、中国を助けて「欧洲各国の怨みを買」うよりも、「今のうちに泥棒(欧米列強のこと)の仲間入り」すべきである、と主張する(同上、同書)。それが、帝国主義列強の国家内にあって少青年期を過ごした英麿の眼には、兄の「同人種同盟論」はあまりにも理想主義的に見えたのかもしれない。

英麿の欧州留学は、15年以上の長きに亘った。その理由について英麿は、①法律を極めたいこと、②ベルリン大学の試験が難しいこと、③博士論を執筆するため、の3点を挙げている(篤麿宛書簡、明治35年8月25日、『近衞日記』第5巻)。しかし、国内では養家の津軽家をはじめとして長すぎる留学が問題となっており、東亜同文会をはじめ各種事業に資金を提供していた兄篤麿にとっても、英麿の留学費用を捻出することは決して容易なことではなかった。明治36年篤麿は、欧米視察の途に出る陸羯南に、英麿の帰国を促すよう要請している。結局、明治37年英麿は17年間に及ぶ留学生活を終えて帰国した。

帰国後の英麿は、早稲田大学や学習院の教授を歴任、さらに朝鮮統監府法制取調事務嘱託、韓国宮内府書記官、総督府外事局取調事務嘱託、式部官兼李王職事務官、宮内省大臣官房御用掛などを歴任した後、大正7(1918)年に貴族院議員となったが、翌年急逝した。

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