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第10回 ベトナムの城 竹森紘臣

第10回 ベトナムの城 竹森紘臣

第10回 ベトナムの城

ベトナムは現在の国土が確定するまでにおおくの戦争を乗り越えてきた。1802年に阮朝の統治となるまで、北部は中国の支配を受け、中部はチャンパー族、南部はクメール族の国であった。中世までは中国や各部族との戦争や大きな内乱があり、また近代になるとフランスの支配やアメリカとの戦争など、戦乱はいつの時代も収まらなかった。そのいくつもの戦いのため、ベトナム各地には様々な年代に多くの城砦が建設された。

ハノイは長い歴史をもつベトナムの首都である。1010年にベトナム最初の長期王朝といわれている李朝の初代皇帝、リー・タイトーが現在のハノイであるタンロンに居を構えて以来、チャン朝、レ朝、マック朝、レ朝中興期と続き、グエン王朝に政権が移り首都がフエへと移転するまで、歴代の皇帝が約800年間に渡り城を据えていた。この城はタンロン城と呼ばれている。(写真1)

1890年ごろの地図によるとタンロン城の城郭は一辺1km弱の正方形をしており、その一辺の端点と南側をのぞく中点に角堡が設置されている。正方形に7つの小さな角が生えているようなかたちである。現在の道路でいうと南北をファン・ディン・フン通りとチャン・フー通りに、東西をフン・ブオン通りとリー・ナム・デー通りによって四周を囲まれている。当時の城壁はほとんど残っていないが北側のファン・ディン・フン通りに城郭の北門が残っている。(写真2)この門には1882年にフランス海軍士官アンリ・リビエールの砲撃による砲弾の跡があり、かなり大きく生々しい。この攻撃ののち、フランス軍はタンロン城の一部を破壊し、統治時代には城は徐々に解体されていく。フランス統治時代の場内は主にフランス軍の駐留地であったが、フランス軍撤退後はベトナムの国防相が引き続き軍の駐留地として使用している。現在残されているのは城の中心部の南北700m、東西150mほどの部分のみで、この部分も国防相の所有区域であったが2000年代初頭にハノイ市に譲渡され、現在は一般公開されている。

この城址は2010年に世界遺産に指定されている。歴代の王朝により修繕や拡張の工事が繰り返され、その後は軍用地として使用されたりと、歴史が重層的に残っており、現在でも調査が続いている。

ベトナム最大の都市であるホーチミン市にもかつてその中心部に大規模な城塞があった。ザーディン城と呼ばれ、西山党の乱(1771-1802)の最中で西山党に対する防衛のためにつくられた。のちのグエン朝ザーロン帝であるグエン・フック・アインの依頼により、フランス人宣教師や中国人技術者の指導のもとに建設され、ヴォーバン式といわれる当時フランスでポピュラーだった星型城郭を基本として、中国の様式も折衷されているといわれている。城郭のかたちとしては北海道の五稜郭を想像するとわかりやすい。北海道の五稜郭は1800年代に建設されたものだが、ザーディン城と同様、フランス人の指導により建設されている。ザーディン城の周囲は4km強ほどでタンロン城とだいたい同じ大きさであるが、その角堡はタンロン城よりずっと大きく、何段かに積み上げられている。

タンロン城が長期間の居城という機能を有していていたのと比較すると、ザーディン城は戦争に対してより実践的な機能を重視した城と思われる。

ただし、この城も結局はタンロン城と同様に、植民地支配をめざすフランス軍の攻撃で1858年に破壊され、その後の統治時代に城壁は撤去され、堀は埋められて、現在ではその遺構を見つけることはできない。

 


写真1枚目:タンロン城 楼門(ハノイ、ベトナム)
写真2枚目:タンロン城 北門(ホーチミン、ベトナム)
map:タンロン城(ハノイ、ベトナム)

 

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