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第1回 北京の「水晶宮」:故宮 延禧宮 靈沼軒 東福大輔

第1回 北京の「水晶宮」:故宮 延禧宮 靈沼軒 東福大輔

第1回 北京の「水晶宮」:故宮 延禧宮 靈沼軒

「水晶宮」と聞いて、1851年のロンドン万博の際に建てられた、造園家ジョセフ・パクストン設計の「クリスタル・パレス」を思い浮かべる人はかなりの「建築ツウ」だろう。だが、こちらの「水晶宮」の存在はどうだろうか。しかも、その建物は、北京の中心地、紫禁城のただ中にあるとしたら。

延禧宮(イェンシーゴン)と呼ばれる宮殿は、紫禁城の中ほど、西側に位置する。観光客が溢れかえる紫禁城の中にあって、通路の奥のこの地域は、比較的人が少ない。歩いていると、黄色の瓦が葺かれた中国建築群のただ中に、洋館が突然に顔を出し、驚かされる。三階建ての西洋建築「靈沼軒(リンジャオシェン)」、俗称「水晶宮」がこの建物だ。公式記録では、隆裕皇后が当時の太監の進言を容れて建設を命じたとされているが、隆裕皇后は意志薄弱なところがあって、建物の建設をグイグイと押し進めるようなタイプではなかったらしい。

よってここでは、もう一つの説を考えたい。光緒帝の側室である瑾妃が、この建物の前で生け簀の中の金魚を眺めている写真が残されており、宮廷内で権力を持ちつつあった彼女が建設プロジェクトの中心となったのではないか、という説である。瑾妃の妹、珍妃は、同じく光緒帝の側室だったが、西太后の謀略によって井戸に投げ込まれて殺されている。珍妃の死が1900年、彼女を謀殺した西太后と夫である光緒帝の死が1908年、この建物が企画されたのが1909年、そして清朝の滅亡が1912年であることをふまえてこの建物を見ると、この「水晶宮瑾妃プロデュース説」は、十分ありえるのではないかと思えてくるのだ。

つまりこうだ。西太后が死去した後の瑾妃は、前皇帝の側室として、宮廷内でそこそこの権力を有していた。もちろん、滅亡寸前の王朝であるから、贅を尽くすことはできないが、小さな建物一つくらいならなんとかなる。妹の死と、王朝の滅亡に対する悲しみから逃れるかのように、彼女はこの建物を夢想することに打ち込んだのではないか。

そう思わせるくらいに、この建物は常軌を逸している。地下部分の構造は鉄筋コンクリート造、地上部分は鋳鉄による鉄骨造。どちらも紫禁城内では最初の例である。窓のガラスは全て二重とし、その間を水槽にして魚を泳がせる。また、床もガラス張りとし、床下を泳ぐ魚達を見せる。これらの構想のなんとロマンチックなことか。そして、建物全体を覆う様式は遠目には西洋風であるし、中国人もこの建物を「西洋楼」と呼んでいたが、細部の彫刻をよく見ると、中国化された「花鳥風月」モチーフが頻出し、かなり漢化されている事が分かる。この華美な様式は、日中の研究者の間では、「中華バロック」と呼ばれている。

台湾の故宮博物院のお宝として有名な「白菜」の彫刻も、瑾妃の嫁入り道具の一つとされる(元々は珍妃の物だったが、それを取り上げたとの話もある)。美食家で、文芸を好んだ人物であったが、美しく聡明な妹に比べ、彼女は近代史の片隅に追いやられてしまっている。残念ながら、この建物の建設は清朝の滅亡とともに中止され、今はその残骸を残すのみであるが、この廃墟は、瑾妃の人となりを想起させるのである。


写真1枚目:故宮延禧宮 靈沼軒(筆者撮影)
写真2枚目:靈沼軒細部の装飾(筆者撮影)
 

  
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