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第4回 近衞篤麿の留学生活(1) 嵯峨隆

第4回 近衞篤麿の留学生活(1) 嵯峨隆

近衞篤麿の留学生活(1)

近衞篤麿がウイーンに到着したのは、1885(明治18)年7月2日のことだった。まず、ウイーンでは公使館付きのオーストリア人からドイツ語の初歩を学んだ。その後、テレジアニッシェ・アカデミーの教授であるフォン・ワーゲンフェルトに師事し、数ヵ月にわたって「ヒットルドルフ」という農村でドイツ語を学んだ。そこはおそらく、ウイーン西郊にあるヒュッテルドルフのことだと推察される。

オーストリアに来た当時、近衞は「未だ独乙語一丁字を解せず」の状態であった。彼としては、1日でも早く語学を習得して専門の研究をしたかった。そこで、速成の学習法を願い出たが、師はこれを不可として正規の方法に従うことを勧めた。また、近衞は初学者に読める本の紹介を頼んだが、これも時期尚早といわれた。
しかし近衞は諦めず、ある日、書店で1冊の本を買い、独力で翻訳に取り掛かった。どうやら、それは古の聖賢の逸話集であるらしいことが分かった。彼はまだ文法を十分に理解していなかったが、ひたすら辞書を頼りにこれを訳し上げた。近衞は「後日之を見ば自ら笑に堪へざるべしと虽(いえど)も、亦以て当日の辛苦を回顧するにたるべし」と記している。8月上旬のことであったが、彼の向学心の一端を窺うことができる。

近衞は9月29日、ドイツのベルリンに赴き、公使の青木周蔵にその後の学習計画を相談した。青木は近衞にドイツで学ぶことを勧めたため、彼もそれに従った。留学先の変更に当たっては、宮内庁は転学の申請を特に免除した。そこで、近衞はベルリンのリヒターフェルデにあるミュラー家塾に入り、ドイツ語と一般教養を学んだ。しかし、近衞はここに長く滞在するつもりはなかった。そして、ミュラーが1886(明治19)年5月に死去すると、7月にボンに移り、10月22日にはボン大学に入学することとなる。

ボン大学入学前の少し前、近衞は7月23日から8月9日まで南ドイツへ旅行した。この旅行の途中、近衞は松村任三(じんぞう)(当時、東京大学助教授)と橋本春(はじめ)(医学生。陸軍軍医総監・橋本綱常の子)と、宗教をめぐって激しい論争を行っている。青年時期の近衞の思想傾向を知る上で参考になるので、ここでその議論を簡単にみておこう。

近衞が彼らと出会ったのは、8月1日、ヴュルツブルグにおいてであった。橋本とは以前から面識があったが、松村とは初対面だった。彼らは市内見物をした後、レストランで飲食を始めると、話は宗教問題に及んだ。
松村は次のように述べた。自分は生物学者の立場から、これまで進化論を信じてきたが、ドイツに来てからは人心を収攬するには宗教でなければならないことを知るに至った。しかるに、日本の神道は宗教としての性質を備えておらず、これをもって人心を収攬することは難しい。他方、仏教は宗教の体裁は持つものの、学理に富んだ僧侶は少なく、愚民からは歓迎されても知識人には受け入れられないとする。

結論として松村は、「余の首として望む所は、耶蘇教を日本に盛んならしむるにあり」として、キリスト教の国教化が必要だとした。そして、大学で神学を教えて学識に富んだ牧師を養成し、各地に教会を建てて国民にその宗教の貴さを示すことが必要だとした。橋本も同意見で、仏教徒に厳罰を科してまでも国教化を実現すべきだと述べた。
これに対して近衞は、神仏両教が不完全であることは認めつつも、日本に西洋の宗教を根付かせることは難しいとする。むしろ仏教を改革して、国民を宗教の高みに進ませる方がよいという。仏教を改革することができれば、西洋の宗教を導入する必要などないのだ。しかし、松村らにとっては宗教の是非だけが問題なのではなく、日本は非キリスト教国という理由で欧米人に侮られているのではないかという問題に渉るものであった。

この問題は9月に入ってから、松村との書簡を通じての論争になる。松村は次のように記す。「Religionなき国は野蛮と言うの過言に非ず」、「耶蘇教を日本に入れて益々これを盛んならしめんに、あるいは害ありとも、今の無宗教に如かず思い候」(原文はローマ字)。松村は、日本がキリスト教国となることで西洋の文明国と対等になり得るというのである。ローマ字の使用からも分かるように、彼は徹底した欧化論者だった。

返書において近衞は、仮に日本がキリスト教国になったとして、西洋各国がにわかに対等と見てくれるかは疑問だとし、「若し我国の文化進み、百般のこと欧州を睥睨するに至らば、宗教は変ぜずとも彼耶蘇教国は腰を屈して相交際せんことを望むは、鏡に掛て見が如し」と述べている(「松村任三氏ニ質ス」)。近衞は、国民性と国民文化に基づくことによって近代化を成し遂げ、富強国家となって列強と対等に渡り合えることを望んでいた。彼はドイツの地にあって、日本人との議論を通じて欧化主義反対の思いを強くしたのである。

近衞は友人たちと、いつも難しい議論をしていたわけではない。彼が同時期に、陸軍一等軍医としてドイツに留学していた森鴎外と親しく交わったことは良く知られている。鴎外の「独逸日記」の1886(明治19)年7月30日の条には次のように記されている。

午後近衞公、加藤、岩佐とウルム湖に遊ぶ。近衞公加藤と角觝の戯を作す。その相対するの状を見るに、公は身短くして肥え、加藤は長くして痩す。観者皆笑ふ。已にして加藤を攫(つか)み、一間許(ばか)りも投げ出したり。その膂力想ふべし。加藤は是より数日間頭痛に苦みたり。是より公と競走を為す。余敗北す。然れども角觝と違ひ、頭痛だけは免れたり。

ここに出てくる「加藤」とは加藤照麿、「岩佐」とは岩佐新(あらた)で、後に2人とも医師にして貴族院議員となる人物である。幼少の頃から相撲好きだった近衞は、ドイツにまで行って怪力ぶりを発揮していたのである。それにしても、近代日本の若きエリートたちが、屈託なく遊びに興じる様には微笑ましいものがある。

なお、近衞は祖父に宛てて、弟の英麿、鶴松の西洋留学を勧める書簡を送っている。今の時代は、少しでも早く西洋の知識を吸収するのが良いというのがその理由だ。同時に、彼は「西洋人の日本人を見下るは大人小供の差別無御座候間、大人に成てからは実に堪難き口惜しき事も有之」と記しており、彼自身も不当な差別を受けたのかもしれない。彼はヨーロッパ社会の明と暗の両面を見ていたのである。

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