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第5回 近衞篤麿の留学生活(2) 嵯峨隆

第5回 近衞篤麿の留学生活(2) 嵯峨隆

近衞篤麿の留学生活(2)

ボン大学に入学した近衞篤麿は政治・法律学を専攻した。指導教授となったのはヨハネス・ユストゥス・ラインである。ラインは日本で実地踏査を行ったことのある地理学者で、日本研究者としても知られる人物である。ラインは近衞の就学や住居の手配など、公私にわたって面倒をみてくれた。そのため、近衞は祖父の近衛忠煕に、ライン宛に礼状を送ってくれるよう依頼しているほどである。

近衞は英国滞在中の藤波言忠(ことただ)の誘いを受けて、1886(明治19)年9月中旬から20日間近くロンドンに遊んだ。近衞は、当地では在留日本人名士と会うなどした後、連日各所を観光して回った。9月20日には水晶宮を見学したが、近衞はこれを「実に大建築にして鉄柱を以てなり、四面上部張るに玻璃を以てす。遠見すれば氷山の如く実に水晶宮の名に恥ぢざる者と云ふべし。庭園も亦美なり、且つ其地位の高燥なるが為に一層盛観を益す」と絶賛している。

しかし、同日の夜に訪れた「日本村」は最悪の印象を与えた。これはオランダから日本に帰化し人物が、ロンドンで日本の芸能や生活を紹介する施設として開いたもので、物珍しさから多くの見物客が訪れていた。しかし、近衞からすれば極めて低俗な興業であって、歌舞音曲のあまりの酷さには「実に地にも入らん心地せり」とまで記している。また、職人の仕事を紹介する一角では、「皆半天を着し或はどてらを着して坐する様は甚だ見苦かりし」と書いている。名門貴族の当主としての近衞にとって、西洋人のジャポニズムにつけこんだ低俗な見世物は、そのプライドからして許せないものであったに違いない。

近衞のロンドン滞在は物見遊山が多かったとはいえ、社会の観察には怠りなかった。彼はイギリスが世界最大の植民地を持つ国家であることを認める。しかし、その国家の首都であるロンドンの市民が皆富んでいると考えるのは間違いであるという。近衞は、そこに絶大なる貧富の格差を見て取っており、「富の最も大なる者は英人中にあり、又貧の最も大なる者も英人中に在りと云て可ならんか」と記していたのである。

1887(明治20)年1月、近衞がかねてより留学を勧めていた弟の津軽英麿と常盤井鶴松がボンに到着した。4月、近衞は彼らを連れてマインツやフランクフルトなどドイツ西部を旅行した。また同年夏には、弟らを連れてライン教授のもと、アルプス山脈踏破の旅を行っている。30数日の旅では、ラインが費用の節約に努めて一行の疲労を顧みなかったため、近衞を含めて彼への不満の声が上がったという。近衞は祖父に宛てて、「今度の旅行は面白いやら苦しいやら一向訳の分らぬ旅に御座候」と書いている。

近衞は1888年4月、ボン大学を去りライプツィヒ大学に転学した。ボン大学はドイツ有数の大学ではあったが、当時の在学生には貴族や富豪の子弟が多く、飲酒や遊惰に耽り学問に励む者が少ないように見えたためである。それに比べて、ライプツィヒ大学の学風は穏健で、学生も学問に真摯に取り組む者が多かった。1409年に創設された同校は、16世紀にはドイツ最大の大学といわれたほどであった。その後、一時衰退したが、19世紀になってからは名声を回復していた。近衞は4月15日に祖父に宛てた書簡で、「大学校は独乙(ドイツ)中にて二番目と申す位な立派なる学校に有之」と報告している。

転学の後、近衞は商法学を専攻しようと考えていた。しかし、ある友人から、日本の名門貴族が弁護士となって商事訴訟を弁論するとは、何とも面白い暇つぶし事ではないかと揶揄されて考え直すこととなった。そこで一転して、憲法学とラテン語などを学んで、将来自国の政界に立つ素養を身につけようと決意したのである。近衞がこの大学で師事したのは、ワッハという人物であった。近衞が在学中に法学を担当したワッハ姓の教授としてはアドルフ・ワッハがいるので、おそらく彼が近衞の指導にあたったものと考えられる。ただし、彼の本来の専門は、民事訴訟法と刑法であったようだ。

近衞は学問に励む一方で、酒もよく飲んでいた。ライプツィヒ大学へ転学した後、9月16日付の祖父宛て書簡では、最近は読書もせずに酒ばかり飲んでいるとした上で、「独乙人の大酒は申上、御承知の事に候が、其中に入りても唯今では餘りひけを取らぬ位に相成候」と告白している。彼は日本にいた頃は毎日、ビールなら5本、ワインなら2本、日本酒は1升くらいは飲んでいたという。留学当初、彼は禁酒を誓っていたが、生来の酒好きのため結局は続かなかったのだ。なお、彼はこの書簡で髭をはやし始めたことを書いており、今日我々が見る髭姿の近衞の肖像の原点がこの頃にあったことを知ることができる。

話を学業に戻すと、近衞は当初日本憲法論をテーマとして卒業論文として書き始めていた。しかし、憲法問題は多岐にわたるので、特に憲法中の重要事項である「国務大臣責任論」にテーマを変更した。この論文はイギリス型立憲体制を是とするものであった。彼は皇帝の権限を重んずるドイツの憲法や国法学を学ぶことで、逆にイギリス流の政治制度に共感を持つようになっていた。そして興味深いことは、近衞がこの論文で当時の伊藤博文の憲法論を論駁しようとしていたことである。帰国後、政治家となって伊藤と対決する意志は、この時からあったことが理解される。

1890(明治23)年6月24日、近衞は卒業論文に合格し、「バッカラレウス」(学士)の学位を受けた。28日には、論文審査を受けて合格したため、「ドクトル・ユリス・ウトリウスクエー」(Doctor Iuris Utriusque―「両法博士」と訳される)となった。かくして、留学の目的は達せられた。近衞は即座に帰り支度に取り掛かり、29日にはライプツィヒを出発し、ベルリンを経てボンに立ち寄り、ライン博士に弟2人の世話を依頼した上で帰国の途に着いた。帰国したのは9月12日であった。近衞篤麿、27歳の時であった。

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