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第6回 議会政治と近衞篤麿(1) 嵯峨隆

第6回 議会政治と近衞篤麿(1) 嵯峨隆

議会政治と近衞篤麿(1)

1890(明治23)年9月に帰国した後、近衞篤麿は政治家、教育家として活躍し、対外的にはアジア主義者として積極的に発言していくことになる。今回はその中でも、政治家としての近衞の活動を見ていくことにする。

帰国後の近衞は有爵議員として貴族院議員に任ぜられた。1889年2月に公布された貴族院令第3条で、公爵・侯爵で満25歳に達した者は終身議員となる旨が定められていたのである。すでに、前年の2月に大日本帝国憲法が公布され、90年11月には第1回帝国議会が開会される運びとなっていた。しかし、貴族院議長であった伊藤博文と副議長の東久世通禧(みちとみ)が病気で倒れたため、1月13日の午後の会議より近衞が仮議長を務めることとなった。彼を仮議長に推薦したのは、かつて留学計画を進めてくれた伊藤であった。

貴族院はもともと、伊藤博文らにより自由民権勢力を代表する衆議院に対抗する役割を期待されて作られた。そのため、初期の貴族院は政府擁護の立場であった。しかし、院内に作られた会派は、やがて政府に対して自己主張を強めていくことになる。その発端は、華族会館調査部が貴族院の政策立案の役割を担うべく調査課に改組したところ、議員の不評を買って1890年11月に廃止されたことであった。議員の中には経費負担が多額である上に成果が期待できないという不満や、調査課の立案が華族全体の意見と受け取られることを嫌い、退会する者が現れていたのである。

近衞はこうした動きを見て取り、独自に調査研究を行う院内会派を設立した。1890年11月4日、彼は二条基弘、勘解由小路(かでのこうじ)資生(すけより)らと「同志会」を組織した。これは、翌年4月24日に「三曜会」と名を改め、帝国議会および華族に関する諸事を研究することを目的に、毎週月・水・金曜日に集会を開くこととした。同会の趣意書は次のように記している。

 

其の議員たるものは、政府の政略と政党の方策とを問はず、苟も偏見と認むべきものあれば決して之を助けず、以て誠意誠心我が皇室を護り、我が憲法を守り、又以て忠実に国利民福の道を講ずべきのみ。是れ啻(ただ)に本会員の確守する方針のみならず、亦た之を以て貴族院の輿論たらしめんと欲するなり。

 

三曜会の規約の第1条には、「本会は国家に対する責任を全ふせん事を期し、専ら時務を調査講究するを以て目的とす」とある。創立当時の会員数は25人であったが、いずれも信念の強い会員であったため、貴族院の会派の中では硬派と目され、議会での発言や行動は常に活発であった。また、近衞は同じ年の3月16日に、「我邦の財政に関する一般の事項を調査研究する」ことを目的として「月曜会」を組織している。

1891年5月11日、来日中のロシア皇太子ニコライが、滋賀県大津町で巡査に切りつけられるという大津事件(湖南事件ともいう)が発生した。この事件によって、内務大臣(西郷従道)と外務大臣(青木周蔵)が辞職したが、近衞はそれだけでは不十分だとして三曜会のメンバーと共に内閣総辞職を求める運動を行った。当時、問題とされたことは、政府が事件発生前に、仮に皇太子に危害を加える者が現れれば、皇室罪をもって対処する旨をロシア側と約束していたことであった。

これに対して、5月30日、近衞は同志との連名で上奏を行い、「是れ行政権を以て司法権を侵犯するものにして、立憲下、容すべからざるの曲匪たり」と批判を行った。この際、内閣としては責任の所在を明らかにすべきであり、無為にこれを捨て置くことは、天皇に対する責任を軽んずるばかりでなく、国務大臣の輔弼責任を定めた帝国憲法55条にも背くものだと考えられたのである。

以上のような近衞の姿勢は、ドイツ留学時代に確立されたものであった。彼は前年に「国務大臣責任論」という題目の卒業論文をライプツィヒ大学に提出していたが、この年の7月から3回にわたり、その主要部分たる後半部を『郁文会誌』に訳載している。翻訳の意図するところは、自身の憲法観を提示すことで、時の権力の中枢にいる伊藤博文との見解の相違を明らかにすることであったと見られる。以下、その主旨を見ていくことにする。

近衞は天皇主権説の立場を取るが、それは政治責任を免れる存在であらねばならないとする。彼によれば、主権と国権は区別されるものである。君主は統御するとだけでなく施政するものでもあるからだ。君主の施政権(=国権)は議会の協賛、国務大臣の補助を得なければならず、種々に制限を受けるものである。これに対し、「統御件即ち主権とは、君主が儀式上国家の一身に引き受けて、外面に表示する権を云ふ」。すなわち、近衞の考える主権とは象徴的なものにほかならない。ここから、「全く彼(天皇を指す―引用者註)は主権者なれば無責任ならざる可からず」と結論づけられる。

しかし、天皇といえども時として過ちを犯す場合もある。それゆえ、天皇の政治上の行為については、それが違憲行為と認められる場合は、国務大臣がその責任を負わなければならない。この点において、伊藤博文が『帝国憲法 皇室典範義解』(1889年)において、「(大臣は)其の固有職務なる輔弼の責に任ず、而して君主に代り責に任ずるに非ざるなり」としていたことは、「正鵠を失したる論」として批判されるべきものであった。

また、伊藤は「大臣の責を批判する者は君主にして、人民に非ざるなり」としているが、これもやはり批判の対象となる。近衞は、国民の代表である議会に、国務大臣(内閣)に対する告発権を与えることによって、大臣の責任を問うことができると考えていた。彼の認識では、議会に告発権を与えない国家は、立憲政体の本旨からすれば「完全なる憲法国」とはいえないものであった。そのため、本来なら憲法を改正して議会に告発権を与えるべきだが、現憲法の下でも大臣の憲法違反の所為を上奏することは可能である。これは告発権ではないが、当面の有効な手段だと考えられたのである。

以上において、近衞の「国務大臣責任論」を見てきた。彼の政治的立場は、概ねイギリス流の立憲主義を基礎とするものであったということができる。こうした思想の上に、彼は議会で政治活動を展開していくことになるのである。

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