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「中国帰国者」って知っていますか? 第3回 「棄民」〈2〉抹消された存在 興津正信(日本語教師)

「中国帰国者」って知っていますか? 第3回 「棄民」〈2〉抹消された存在 興津正信(日本語教師)

第3回 「棄民」〈2〉抹消された存在

座礁に上がってしまった引揚業務であったが、1950年にモンテカルロで開催された国際赤十字の会議で、再開の兆候が見えた。その会議の席上、日本赤十字社の代表が、中国紅十字会の代表に、中国には日本人の看護婦がまだ残留していると伝えたのである。中国側としては、その話は初耳だということで、調査をしてみると応じた。そして、1952年12月、日本向けの北京放送で、中国残留日本人の帰国問題について、以下のような言及がでた。

一、中国には約3万人の日本居留民がおり、中国政府の保護を受け、生活は安定している。

一、居留民の他に少数の戦犯がいる。彼らはいま裁判を待っている。

一、国に帰りたいと望んでいる日本居留民には、帰国を援助したいと考えており、日本側が船の問題を解決できるなら、中国政府はその帰国を援助するよう努力する。

一、以上の問題等については、日本側の適当な機関、または民間団体の代表を派遣し、中国紅十字社と話し合って解決すればよい。

(『中国残留邦人-置き去られた六十余年』(岩波新書)より要旨抜粋)

この言及に応えて、中国紅十字会と日本赤十字社、日中友好協会、日本平和連絡委員会で北京協定が締結され、彼らが窓口となり、1953年3月より引揚業務が再開されたのである。これが後期集団引揚であり、民間レベルで行われた。日本政府は受入れには務めたものの、ほとんど事業にタッチすることがなかった。その受入れも、日本人のみに限定され、とくに中国残留婦人の多くは、外国籍の夫は同伴できない(ただし外国籍の妻は同伴を認められた)ことなどで、帰国を諦めざるを得ず、結局再び「棄民」になってしまったのである(後に一時帰国は認められた)。

帰国対象が限定的だったといえ、せっかく再開したこの後期集団引揚も、1958年7月で、中断になってしまった。その中断となった原因は、主に日本側にあると中国帰国者問題に関わっている弁護士、研究者、ジャーナリストは指摘している。

よく通説的に言われているのが、当時の日本政府がアメリカに追随する形で「中国敵視政策」を取ったことや長崎国旗事件が直接的な原因であるということだ。長崎国旗事件とは、1958年5月長崎のデパートで開催された中国品物産展で日本人青年が中国国旗を引きずりおろした事件のことである。その青年は逮捕されたが、即日釈放された。これについて、日本政府は、そもそも中華人民共和国を承認していないのだから、それは国旗にあたらないと表明したのである。当然、中国側は強く抗議したが、とりわけ当時の内閣総理大臣・岸信介が台湾の友好を主張し、中国共産党政府を無視するかのような発言をしたため、中国側は態度を一気に硬化してしまった。そして、中国側は日中両国のあらゆる通商・文化の関係を断絶すると表明したのである。

こうした日中の関係断絶が後期集団引揚を中断に追い込んだとされているが、祖国の帰国を待ち望んでいた中国残留日本人にとっては、また置き去りにされたという憤りに震えたことであろう。さらに中国残留日本人の存在そのものを抹消し、まさに「棄民」感情で絶望させるようなことを日本政府が打ち出した。それが1959年3月に公布された「未帰還者に関する特別措置法」である。これには、未帰還者の失踪宣告を家族ではない厚生大臣もできるという特則が設けられた。最終情報から7年経過しても新しい生存情報が確認できなければ、国が戦時死亡宣告を出せるとし、戸籍も抹消されるとしたのである。この法律によって中国残留日本人は、戦時死亡宣告の対象となったのである。「7年経過しても生存情報がなければ」とあるが、長崎国旗事件等で完全に日中の交渉が断絶した中、どうやって日本にいる家族らは情報を得るのであろうか。できるはずもない。また政府としては、日本の家族に対し、弔慰料3万円、恩給法の適用等の措置を講じ、一連の戦後補償に務めたとしているが、まだ生きているはずの中国残留日本人を次々と戸籍から抹消し、法的に死亡者にしたことは、結局は国が邦人救済の責任を放棄したと言えるであろう。

筆者は、現在日本語を教えている中国帰国者一世から「私たちは一度祖国に消された」と聞かされたことがある。戦後77年経った今でも、祖国に見捨てられたという悲しみと悔しさは深く残っているのである。「棄民」感情は無事帰国できた中国残留日本人=中国帰国者であってもなかなか拭いきれるものではない。

1972年の日中国交正常化以降、中国残留日本人の身元判明調査や帰国事業が本格的になった。しかし、直ちに好転し、劇的に帰国事業が進んだわけではない。自国の民を法律の名のもとに切り捨て、戸籍を抹消したことが障壁となって立ちはだかることになった。

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