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「中国帰国者」って知っていますか? 第2回 「棄民」〈1〉前期集団引揚まで 興津正信(日本語教師)

「中国帰国者」って知っていますか? 第2回 「棄民」〈1〉前期集団引揚まで 興津正信(日本語教師)

第2回 「棄民」〈1〉前期集団引揚まで

戦後75年にあたる2020年、ドキュメンタリー映画「日本人の忘れもの」(公式サイトhttps://wasure-mono.com/)が全国各地で上映された。太平洋戦争以前、フィリピンには約3万人の日本人が住み、移民社会を築いていた。またほぼ同時期に、中国東北地方、当時は日本の植民地・満州国であったが、そこには国策であった満蒙開拓政策によって、多くの日本人が移住した。この2つの国では、終戦の混乱で、帰国する機会を失い、多くの日本人が置き去りにされてしまったのである。映画は、そんな2つの国の残留日本人にスポットを当て、彼らを支援する人々の姿を追った奮闘記である。戦争犠牲者である残留日本人を救済する責任が本来あるはずの日本政府に向けた告発映画として、大きな反響を呼んだ。

この映画タイトルにある「忘れもの」ということばもそうだが、「中国帰国者問題」に関する書籍や映像資料を見ていると、「忘れる」「捨てられた」「排除」といったことばをよく目にする。その中で「棄民」ということばがある。中国残留日本人及びその家族は、その「棄民」であるという捉え方が、この映画の中でも象徴的に示されていた。どうして彼らは棄てられてしまったのか。その責任の所在はどこにあるのか。この問いを考えることは、「中国帰国者問題」の本質を解き明かす上で、必要不可欠なことであろう。

写真説明:一般書から研究書までの書名にも「棄民」を意味することばが見られる。

1945年8月の終戦当時、海外には約600万人の日本人が在住しており、そのうち、約155万人が中国東北部に住んでいたと言われている。これらの日本人すべてを一斉に引き揚げさせることが基本方針となっていた。日本への降伏要求であった「ポツダム宣言」(1945年7月26日)にも、「日本国軍隊は、完全に武装を解除せられたる後各自の家庭に復帰し、平和的且生産的の生活を営むの機会を得しめらるべし」と、日本が占領した各地から日本人居留者を順調に引き揚げるようにとある。しかし、その対象は軍人及びその関係者であって、一般民間人については触れていない。さらには、日本政府は、日本人の生命、財産の保護に万全の措置を講ずるようにと在外公館に指示をした上で、「(海外の)居留民はでき得る限り定着の方針を執る」(1945年8月14日「三カ国宣言受諾に関する訓電」)ようにと通達したのである。つまり、占領地にいた一般民間人に対しては引揚げ(帰国)させるよりも、むしろそのまま現地に留まって、自力で生きようと指示したのであった。

中国東北部の満州国は、日本が侵略したことで建国された傀儡国家である。中国人にとっては歓迎するどころか、怨嗟の感情が渦巻いていた。日本敗戦によって、その侵略の圧迫から解放された中国人の、長年の怨嗟が残された満蒙開拓団の日本人に向けられるのは想像に難くない。そんな現地に取り残された日本人のほとんどは老人婦女子であった。そのような状況では彼らの「生命、財産の保護」なぞできるわけがなかった。終戦間際に中国東北部に侵攻してきたソ連軍に殺されたり、自決に追い詰められたり、飢えや伝染病に苦しんだりして、結果、多くの死者が出た。それでも中国人家庭に拾われることで生き延びた人たちもいた。彼らは安心して現地に定着したのではなく、苦難を耐え忍び、中国社会の中に身を隠しながらも、それでも、いつかは祖国へ帰る日が来ると待ち望んでいたことであろう。戦争当事者である日本は、本来は国の責任においてこのような邦人を救済すべきところを、「現地定着」の指示によって、結果、彼らを置き去りにし、見捨ててしまったのである。

軍人らの送還業務が順調であることに対し、一般民間人についてはなかなか進まなかった。その中、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は1946年3月に「引揚げに関する基本指令」を日本政府に発した。当初、この引揚業務の日本側の担当は外務省であった。しかし、遅々として進まない状況に、GHQが業を煮やし、引揚業務の中央責任官庁に厚生省を指定したのである。以後、今日もそうだが、この引揚業務から、戦傷病者及び戦没者遺族等、そして中国帰国者を対象としたさまざまな援護・支援業務は、厚生省(現・厚生労働省)が担当することになった。

中央責任官庁が指定されたものの、日本政府がイニシアチブをとって引揚業務を進めたわけではなかった。GHQの「基本方針」発表後、米軍代表と中国国民政府の間で日本人の送還に関する協定が結ばれた。そこからは、ほぼGHQ主導で引揚業務が進んだのである。これが前期集団引揚となる。第一便は1946年5月葫蘆島を出発し、佐世保港へ引揚げられたが、この船舶についても日本側が十分に用意できなかったことで、米軍からの投入で実現に至った。米軍管理下で行われたこの大規模の引揚で約105万人の日本人が帰還できた。中国残留日本人の状況については、親兄弟と逸れた孤児らも、一般引揚者とともに3000人余り帰国できたとされている。公的記録では、「博多、佐世保の引揚援護局(厚生省)の調査により肉親に引き取られたものが8割、身元が分からず施設に収容された者が600人」とされている。だが、まだ「すべての日本人」が帰還できたわけではなかった。

この前期集団引揚は1948年8月で打ち切られた。その理由は、中国大陸での国共内戦の激化によるものとされている。その国共内戦は1949年10月1日の中華人民共和国が成立で、終わったのだが、日本政府はその中華人民共和国を正式に承認せずに、国交も樹立しなかったことで、引揚業務における日中間の国レベルの交渉が途絶えた。さらには、朝鮮戦争の勃発(1950年)で、東アジアの国際環境が米ソの冷戦構造に巻き込まれ、中国残留日本人の現状を知ることがほぼ不可能になり、戦後引揚げは頓挫したのであった。

(このコラムは、次回「棄民」〈2〉に続く)

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