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〔10〕“再国際化”以前の羽田空港と中華航空 小牟田哲彦(作家)

〔10〕“再国際化”以前の羽田空港と中華航空 小牟田哲彦(作家)

〔10〕“再国際化”以前の羽田空港と中華航空

羽田空港は正式名称を東京国際空港という。利用する旅客数も空港の規模も日本一で、国内外の航空便が朝夕を問わずひっきりなしに発着する。だが、「国際空港」を名乗っているのに海外行きの国際便がこれほど多く発着するようになったのは現在の第3ターミナルが国際線ターミナルとしてオープンした平成24(2010)年以降のことで、まだ10年ちょっとしか経っていない。昭和末期から平成中期にかけての20年以上の間、羽田はほぼ国内線専用空港として機能し、一般利用客にも「国内線は羽田、国際線は成田」という役割分担が広く認識されていた。

そんな時期に、唯一、羽田空港に発着していた定期旅客便が、台湾のナショナルフラッグである中華航空(チャイナエアライン)だった。昭和47(1972)年の日中国交正常化以降、日中間の定期航空便開設に関する両国の交渉過程で、自国の航空機が台湾の中華航空機と同時に乗り入れることを嫌った中国に日本側が配慮する形で、昭和53(1978)年の成田開港後も中華航空だけは羽田発着のままとする措置が採られたからである。

この日中間交渉の影響で日台間の航空便が一時的に断絶したこともあったが、成田開港後の中華航空羽田残留措置は台湾側に受け入れられ、21世紀初頭まで続けられた。中華航空にとっても、都心から離れてアクセスが不便な成田へ移転するより、都内にある羽田発着を維持できた方が総合的に見てメリットもあったのだろう。かくして羽田空港は1980~90年代にかけて、台湾の中華航空のおかげで旧国際線ターミナルも営業を続け、「国際空港」としての実質を何とか保っていたことになる。

その旧国際線ターミナルを、私は一度だけ利用したことがある。平成8(1996)年に香港へ行くとき、都内の旅行代理店で格安航空券として提示されたのが、台北で乗り継ぐ羽田発着の中華航空だったからだ(画像はそのとき搭乗した羽田発台北行きボーイング747。羽田空港旧国際線ターミナル内から撮影)。大学生だった当時の私は、実は日本の国内線の航空機に乗ったことが一度もなく、羽田空港を旅客として利用するのは初体験だった。


浜松町からモノレールに乗ると、「中華航空の利用者は終点の羽田空港駅ではなく、2つ手前の羽田駅で下車すること」との案内があった。当時の羽田空港駅は現在の羽田空港第1ターミナルビル駅、同じく羽田駅は現在の天空橋駅である。

立ち客も多かった早朝のモノレールから地下の羽田駅で下車する客はほとんどいなかった。地上に出ても、国際線ターミナルへの道案内など出ておらず(見つけられなかっただけかも)、バス乗り場にも誰もいない。かろうじて、同じく中華航空で香港に遊びに行くというおばちゃん3人組の姿だけが他にあって、彼女たちも私を見てどちらからともなく話しかけ、1台だけ待機していたタクシーに相乗りして何とかすぐ近くの国際線ターミナルまでたどり着くことができた。タクシーの運転手は「中華航空に乗る人の多くは、最初から車でターミナルへ行きますね。早朝便の搭乗前はまだ路線バスも動いていないので、モノレールや電車で来る人は少ないです」と話していた。

ターミナルビルの中は、成田はおろか、発展途上国の地方都市の空港と比べても簡素で古びた雰囲気が漂う、はっきり言うと田舎の空港の風情だった。私は当時の日記に「貧弱な国際線ターミナル」と書き綴っている。成田空港ができる前のまま、20年近くほとんど変わっていなかったのではないだろうか。成田と違って他の国際線との乗換えが成立せず中華航空しか飛来しないこともあってか、乗客は台湾人が大多数で、中国語による賑やかな会話ばかりが出発ロビーに飛び交っていた。

当時、ここに発着するのは台北行きの中華航空が原則として1日3便。他にその台北からの便が週5回、ハワイのホノルルまで飛んでいた(当時の中華航空は「羽田からハワイへ行ける」を自社独自のセールスポイントにしていた)。最大でも1日4便しか発着しない羽田の国際線ターミナルは、空港整備の対象から取り残されたような不思議なスポットで、とても「東京国際空港」とは思えなかった。新しい国際線ターミナルができて、成田開港以前の面影を残すこの旧ターミナルが役割を終えたのは、それから2年後の平成10(1998)年である。

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