1. HOME
  2. 記事・コラム一覧
  3. コラム
  4. 〔9〕「南満洲鉄道(満鉄)」と「満洲国鉄」の違い 小牟田哲彦(作家)

記事・コラム一覧

〔9〕「南満洲鉄道(満鉄)」と「満洲国鉄」の違い 小牟田哲彦(作家)

〔9〕「南満洲鉄道(満鉄)」と「満洲国鉄」の違い 小牟田哲彦(作家)

〔9〕「南満洲鉄道(満鉄)」と「満洲国鉄」の違い

戦前の満洲を走っていた鉄道と言えば満鉄、すなわち南満洲鉄道株式会社がイメージされる。満鉄が運行する超特急「あじあ」は日本全国の小学校で使用される国語の国定教科書に取り上げられるほどの知名度を誇っていたし、現地では鉄道事業のみならず沿線各都市で教育や医療など社会生活全般にかかわる事業を手掛ける国策会社だった。存在感の大きさにはそれなりに理由がある。

とはいえ、日露戦争後のポーツマス条約で帝政ロシアから獲得した満鉄の路線は、第2次世界大戦終結時における満洲全域の鉄道路線の約1割に過ぎない。大半の路線は、満洲国成立時に中国側所属路線を引き継いで新たに設立された満洲国鉄という、建前上は株式会社組織である満鉄とは別の国有鉄道組織に所属していた。具体的には、大連~新京(現・長春)間の連京線と安東(現・丹東)~奉天(現・瀋陽)間の安奉線の2大幹線と一部の支線のみが満鉄直営で、それらの路線は「社線」と呼ばれ、満洲国鉄は「国線」と呼ばれて旅客向けにも区別された。

社線は日本の会社が運営する路線なので、駅や路線の名称は日本語が筆頭言語とされた。駅の掲示や乗車券類の表示には日本語が用いられ、機関士や車掌など現業の鉄道員も日本人職員が大多数だった。とはいえ、路線の大多数が外国を走っており、わずかに、遼東半島の先端に属する大連や旅順だけが関東州という日本の租借地に属していたため、満鉄の本社は大連に置かれた。満鉄の設立当初(1906年)の満洲は清王朝の統治下にあり、辛亥革命後は中華民国が施政権を継承していたから、鉄道権益は日本がロシアから引き継いでいたとはいえ、外国の地に日本の国策会社の本社を置くわけにはいかなかったのだろう。連京線の運行ダイヤが満洲国の成立後も大連発新京方面を下りとし、首都の新京を出る列車を上りとしていたのは、このように、満鉄本社が大連にあった沿革による(ただし、満鉄本社は第2次世界大戦中の1943年に新京へ移転している)。

一方、国線の多くは、満洲国成立前は中国側で運営されていた(実際には中華民国政府の力が及んでおらず、張作霖・張学良をはじめとする軍閥政権の影響下に置かれていた)。満洲国成立の翌年(1933年)、それらの鉄道は全て満洲国が接収して国有化された。だが、同時に、その全路線の運営が満鉄へと委託された。満洲の鉄道路線が全て満鉄であるかのような誤解を生んだのは、このような実態も影響していると思われる。

ただ、列車の運行は満鉄が担っても、社線とはあくまで区別されたことから、当初は運賃も区別された。社線の切符を買うときの運賃は日本円建てであるのに対して、国線では「国幣」と称する満洲国通貨建ての運賃が採用されていた事実が、「国幣」と記された当時の切符の券面から読み取れる。暦も社線は和暦(昭和)が用いられたのに対し、国線は満洲国の元号(大同、康徳)で表記された。

本稿で紹介している画像は国線の3等乗車券で、運賃は国幣建て、日付は満洲国暦。満洲国幣が日本円と等価になり、両替の必要がなくなった1935(昭和10)年までは、旅客はこのような切符を手にしていた。券面も漢字のみの中国語表記になっており、カタカナも使われていた社線の乗車券とは趣が異なる。国線の各駅では、中国所属鉄道の時代から勤務していたと思われる中国人のベテラン鉄道員や弁当業者などが、片言の日本語で旅客に接するシーンが多く見られたという。


《100年のアジア旅行 小牟田哲彦》前回  
《100年のアジア旅行 小牟田哲彦》次回
《100年のアジア旅行 小牟田哲彦》の記事一覧

タグ

全部見る