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「中国帰国者」って知っていますか? 第5回 中国残留婦人 興津正信(日本語教師)

「中国帰国者」って知っていますか? 第5回 中国残留婦人 興津正信(日本語教師)

第5回 中国残留婦人

昨年(2022年)12月、所沢中国帰国者交流会(以下、所沢交流会)から「中国家庭料理食事会」の招待を受けた(写真)。昨今の新型コロナウイルス感染拡大の影響で、しばらくこのようなイベントが開催できなかったということだが、今回3年ぶりに開催された。

写真説明:中国家庭料理食事会の様子。

所沢交流会は、埼玉県所沢市在住の中国帰国者約40世帯と、彼らをサポートしているボランティア25名で構成されている会で、中国帰国者の支援のために、交流イベントを開催したり、日本語教室を企画するなど、所沢市在住の中国帰国者にとっては、良きプラットフォームとなっている。筆者はこの所沢交流会で月2回の日本語教室の講師として、出張授業を行っている。

食事会で出た料理はすべて中国帰国者の手作り。中国の東北料理が多かった。東北地方はまさに「満州国」があったところである。食事会に参加した中国帰国者のほとんどが中国残留日本人の二世あるいはその家族であり、彼らからすれば、まさに母から教わった「故郷の料理」である。そして、彼らの母親の大半は、「中国残留婦人」と呼ばれた人たちのことである。

中国残留婦人という呼称が一般的に知られるようになったのは、1980年代半ば頃からである。確かな定義はないが、厚生省(現・厚生労働省)などの説明によれば、1945年8月15日の終戦時に13歳以上の女性で、中国人の妻になることで生活基盤を築き、中国の留まることになった日本人婦人の一般的な呼称として使われるようになったとある。ちなみに終戦時13歳未満の中国残留日本人については「中国残留孤児」と呼ばれている。

日中国交正常化以降、中国残留日本人の帰国についての支援政策が行われてきたが、当初、日本政府は、終戦直後の引き揚げに関するGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)指令に基づく施策の延長ぐらいでしか考えておらず、残留孤児の肉親捜しにも消極的であった。しかし、第4回コラムで述べたように、中国政府、日本の民間団体やメディア報道などに後押しされるような形で、1981年から訪日調査を始めるなど、ようやく日本政府も本腰を入れるようになってきた。84年からは、日本の親族の有無に拘わらず、日本への永住帰国が可能になった。また肉親が受け入れを拒否すると、いくら身元が判明しても帰国ができなかった残留孤児についても、89年から可能になった(身元判明孤児に対する特別身元引受入人制度の創設)。ところが、中国残留婦人については、そういった帰国支援が適用され始めたのは1991年以降だったのだ。

終戦前後の混乱で中国に取り残されたということであれば、孤児であろうと婦人であろうと、本来なら区別せずに自国民の救済措置を行うべきである。しかし、中国残留婦人に対する日本政府の対応は冷たかった。

日本政府は、中国残留婦人について、彼女らのほとんどは、中国人と「国際結婚」した人たちであるとし、すでに生活基盤を作っているなら、中国に留まったのは「自己責任」であるというふうに認識したのである。こういった認識が定着してしまい、残留孤児と比べると、中国残留婦人の帰国支援についてはかなり消極的であった。

この政府の認識を覆すような出来事が1993年9月5日に起こった。それは12人の中国残留婦人(実際は4人が残留孤児で、8人が残留婦人)による強行帰国である。この年、自民党政権から代わって政権の座についた細川護熙首相が「太平洋戦争は侵略戦争であり、間違った戦争だった」と発言した。この時、この首相なら、孤児・婦人区別なく帰国支援を考えてくれるのではないかという期待感が帰国問題に取り組んでいるボランティアなどから出た。そして、この戦争責任の認識の変化に賭けるがごとく強行帰国したのである。彼女らは成田空港に着いたものの、その日は首相官邸との直談判できなかったため、結果として、空港で籠城するような形になってしまった。その模様を事前に関係者から情報を得ていた朝日新聞の記者が記事にしたことで、事態は大きく動き出した。厚生省は「中国残留婦人」を「中国残留邦人」という呼称に改め、残留孤児と同様に、残留婦人も帰国を希望するのであれば、帰国支援を実施するとしたのである。またしても世論に後押しされる形となったが、ようやく国の責任として、帰国支援が包括的に行われるようになったのである。

所沢交流会の食事会で、「先生、これ、お母さん(が教えてくれた)のギョーザです」と筆者に勧めてくれた中国帰国者。その方の母親も、かつて中国残留婦人と呼ばれていた。現在、中国残留婦人のほとんどが高齢で、すでに鬼籍に入られた方もいる。帰国の困難を乗り越えた彼女らの精神が、今日本で暮らす中国帰国者にも受け継がれているように思えた。

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