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第8回 近衞篤麿 忙中閑あり 嵯峨隆

第8回 近衞篤麿 忙中閑あり 嵯峨隆

学習院長として

近衞篤麿が学習院長に就任したのは1895(明治28)年3月19日のことである。就任後の近衞はいくつかの改革に取り組んだ。その1つは大学科設置に向けての制度改革であった。これは外交官養成を目指すためのもので、上申は6月に認可され、翌月には学則を改正して高等科と大学科の過程を設置した。

近衞は学習院の校風の改革にも力を入れた。当時の学習院は華族の身分を鼻にかける者が多く、しかも素行の悪い学生がいることでも問題となっていた。無気力な者も多かったようだ。学生が何か不始末を仕出かすと、新聞はこぞって取り上げて批判することも多かった。当時の学習院に対する世間の目は厳しいものがあったのだ。近衞は学生たちに精神改革を求め、士としての気風を持たせるべく努力したのである。

また、近衞は官界から学習院が低く見られることに不満であった。1897(明治30)年1月、英照皇太后(孝明天皇の女御)の崩御に当たり大喪式が行われることとなったが、その参列者の席に学習院の名がないことが判明した。文部省管轄下の各学校は参列が許されていたにも拘わらず、学習院は除外されていたのである。近衞は激怒して、大喪式の責任者に面会して次のように述べた。

宮内省が学習院を軽く見るとは一体何事であるか。帝国大学が特別だという理由は全く成り立たない。学習院にも現に大学科があり、その程度は帝国大学に比べて幾分劣るとしても、地位は同じく大学である。その資格に異同優劣などはないはずだ。また、皇室との親疎という点から見ても、学習院は皇室と最も親密な華族の子弟を教育する学校であるため、普通一般の学校とは大いに趣を異にしている。平常の時はともかく、このような場合においてこそ、学習院が特別であることを示すことは皇室のためになるのである。

学習院が軽視されることは、華族子弟の教育を担う院長のプライドからして許せないものがあったのである。そして近衞としては、大学科設置という実績までも無視された思いがあったのであろう。

さて、校内の風紀の問題に戻ろう。1897年12月のことだが、学内で1つの事件が起こった。この事件については拙著『近衛篤麿評伝』の中でも触れているところだが、ここではやや詳しく述べていくことにする。

ある日のこと、中等科のある学生が仲間と放課後に乗馬に行く約束をしていたが、乗馬靴を履いて来なかったことに気がついた。そこで、午前中の授業を抜け出して家に靴を換えに行こうとして校門まで行ったところ、門衛に許可証の提示を求められたためこれを突き飛ばして外に出たのである。このことが舎監に伝えられて問題となり、院の評議会にかけられることとなった。

12月17日に開かれた会議では学生の処分問題をめぐって、温情をもって有期停学とすべきとの意見と、規則に従って厳格に退校処分とすべきとの意見とに分かれた(温情派には中国学者の白鳥庫吉、市村瓚次郎らが含まれていたという)。意見は賛否同数となったため、最終的に院長の近衞の決済に委ねられることになった。近衞が下した判断は退校処分であった。当日の日記によれば、彼は会議で次のように述べたという。

余は志賀の愛すべき有為の青年たる事を知る故に、情に於て如何にも停学論に傾くの嫌あり。然れ共議論としては第二説を可とするものなれば、余は退院論に加担する事を宣言し、且つ情に於て誠に忍びざるものあり。一青年の英気を挫き、自暴自棄、終に一身を誤らしむるは教育者として為し得べき事にあらずと雖も、院規と一の青年の進退とは比すべきにあらず。

いかなる理由があろうとも、また教育的配慮を念頭に置こうとも、学習院の規則は曲げられないと言うのである。この結果、その日のうちに学生の籍は除かれた。近衞の上の文章から分かるように、この学生は志賀という姓で名は直方といい、小説家である志賀直哉の4歳上の又従兄であるが戸籍上は叔父に当たる人物である。

志賀はその翌日、近衞の自宅に呼び出された。すでに除籍となったのだから今さら出向く筋合いはないと一度は拒んだが、父親の説得を受けて渋々行くことを承知した。近衞は来訪した志賀に向って次のように述べたという。

君は今はもう学習院の学生ではない。もし君が破廉恥行為で今の境遇になったのであれば、私は君と関わりを持とうとはせず、放っておくだろう。だが、私はこのままではとても残念だと思って、今日ここへ来てもらったのだ。君は決して失望落胆してはいけない。若者は往々にして失望のあまり自暴自棄に陥って、一生を誤ってしまう者がいる。今日、私は院長としての立場ではなく近衞個人として、君が自暴自棄にならないことを願い、将来のための力添えをしたいとの思いから来てもらったのだ。

この時、志賀が将来軍人になりたい希望があると述べると、近衞はその際には保証人になってやろうと述べたという。志賀は近衞の言葉に接して感激し、溢れ出る涙を止めることができず、ついには嗚咽し顔を上げることができなかったという。退校処分にした学生を気にかけてくれるうえに、自ら保証人になろうなどと言う人はいるだろうか。志賀の表現によれば、近衞は「寡黙にして峻厳、而も血と涙の人であった」。

同じ日のことだが、中等科の学生3名が近衞のもとに、志賀の処分取り消しを嘆願に来た。もちろん、前日の処分を撤回するわけにはいかないと断るのだが、彼らはどうにかして志賀の名誉回復の便宜を図って欲しいと請うた。すると近衞は、彼らに志賀が自暴自棄にならないよう助けてやって欲しいと言い含め、「三人も亦院中の有骨男児なり、可憐の少年輩なり」と書いている。近衞は慈愛の心を持った、器の大きな教育者であったと言えよう。

志賀は翌年、近衞の配慮によって学習院に復学し、卒業後は陸軍士官学校に進み、日露戦争に従軍する。従軍中の背嚢には近衞の手紙をいつも入れていたという。会戦で負傷して退役した後は、生前の近衞の恩義に報いるべく息子文麿の後見役として尽力した。志賀の近衛内閣実現への思いは強く、1933(昭和8)年には文麿のブレーン集団である昭和研究会の設立に関わっている。1937年、念願であった第一次近衛内閣の成立を見た5ヵ月後に志賀は世を去った。近衞の訓戒から40年後のことである。

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