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第604回 対照的な元日本赤軍派の晩年 直井謙二

第604回 対照的な元日本赤軍派の晩年 直井謙二

第604回 対照的な元日本赤軍派の晩年

赤軍派の重信房子受刑者が5月末20年の刑期満了を迎え出所した。世界同時革命を目指し、国際テロを起こした「日本赤軍」の元最高幹部で2000年に国内で逮捕されていた。今後は市民活動はせず平和で穏やかに暮らしたいと述べたという。

赤軍派など過激派の取材は経験がなかったが、1986年インドネシアのジャカルタで日本やアメリカなど欧米の大使館が赤軍派のロケット砲で攻撃された事件を取材した。日本大使館は向かいのホテルから発射されたロケット砲の攻撃を受けたが大きな損害はなかった。スハルト時代は取材規制が厳しく、取材した映像も隣国シンガポールまで運び伝送したのを覚えている。

それからおよそ10年後の1996年カンボジアとベトナムの国境(写真)で元赤軍派の田中義三容疑者が拘束され、「スーパーK」と呼ばれる北朝鮮が関与した精巧な偽ドル札製造の容疑で起訴された。田中容疑者は1970年に起きた日本航空の「よど号」をハイジャックした事件で北朝鮮に渡った赤軍派9人のうちの一人だ。

「よど号」事件から四半世紀、場所も北朝鮮からはるかに離れたカンボジアとベトナムの国境(写真)で拘束された田中容疑者は、タイのリゾート地パタヤで偽ドル札が見つかったことなどからタイのチョンブリ拘置所に移送された。タイの拘置所はオープンで、裁判中は拘置所と裁判所に赴き月に2,3度取材した。その時は2度目のバンコク赴任ということもあって筆者は同業他社の特派員より高齢だった。30歳代の特派員にとっては70年のハイジャック事件は中学生のころに起きた事件だ。田中容疑者は筆者より3歳年下で学生運動の話で盛り上がり、当時沖縄返還をアメリカに求める「沖縄を返せ」という労働歌を二人で合唱した。一方で時代の流れから取り残された田中容疑者は「越年闘争」などとすでに死語となった言葉を使ってあくまでも自らの信条を貫く構えを見せていた。しかし間もなく50歳になる田中容疑者はハイジャック事件の容疑も背負い残された時間は長くなかった。早く偽ドル事件の裁判を済ませ日本に帰国するようアドバイスをした。

結局、偽ドル事件では無罪を勝ち取った田中容疑者は2000年6月に日本の当局に引き渡されたが、すでに52歳になっていた。「よど号」事件で12年懲役の判決を受け服役中、肝臓がんのため2007年58歳で死亡した。余生を静かに過ごせる重信氏と獄中で死亡した田中被告。同じ赤軍派でも余生は大きく異なるものとなった。


《アジアの今昔・未来 直井謙二》前回
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