〔29〕ソウル随一の繁華街・明洞に流れる音楽の四半世紀の変遷 小牟田哲彦(作家)

〔29〕ソウル随一の繁華街・明洞に流れる音楽の四半世紀の変遷
1990年代から2000年代初頭くらいまでは、アジア各国で日本の歌手やアイドルグループの人気が根強く、当該国の芸能人よりも人気があるのでは?という錯覚を抱くことがしばしばあった。アジアの主要都市の繁華街を歩いていると、そのときどきの流行曲が聞こえてきて、それが日本の歌手による日本語の歌だった、という経験が何度もある。
私が初めてアジア各国へ出かけた1990年代半ばは、まだCDよりカセットテープを購入することも多かった。中国大陸で知り合った中国人は、山口百恵や北島三郎といった歌手の名や代表曲を知っていた(当時20代だった同世代の中国人男性は、「最近は香港の歌手が人気がある」とも言っていた)。ソウル随一の繁華街・明洞では、2002年の日韓ワールドカップ共催当時、浜崎あゆみや宇多田ヒカルといった日本人アーティストの曲を、あちこちの店舗が日本語のまま大音量で流していた。

(ソウル・ハイブ事務所)
それから20年以上が経過し、K-POPを生み出す大型芸能事務所を訪ねて、日本を含む世界各国からファンがソウルにやって来る時代になった。著名なアイドルグループを多く抱えるHYBE本社の巨大なビル(画像参照)の前には、海外からの“聖地巡礼”のファンの姿が絶えない。たまたま某アーティストのコンサート開催日に会場最寄りのソウル地下鉄の駅を利用したら、電車から降りてきた大勢の若い女性たちが日本語で「こっちだよ、早く!」などと声を掛け合いながら、地上出口への階段を小走りに駆け上がっていった。
今、明洞の繁華街を歩いても、日本人アーティストの曲を日本語のまま街頭で耳にする機会は少ない。私自身はK-POPの詳細な歴史を語れるほどの熱いファン歴は持ち合わせていないが、旅行者としてソウルの街を歩き、韓国旅行のガイドブックを開いてその記事の変遷を追う限り、明らかにこの20数年で、韓国内におけるJ-POPとK-POPの立ち位置は入れ替わり、それに伴って日本から韓国を訪れる旅行者の客層も大きく変わったことは実感できる。
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