第624回 たった二人の国際中継 直井謙二
たった二人の国際中継
技術の進歩により、簡易型の衛星中継装置やコンピュータによる伝送の開発が進んだことで、今では手軽に海外の映像を入手できるようになった。30年前ベトナムの結合双生児ベトちゃんドクちゃんの取材中、わずか二人で衛星中継を強行したことを思い出した。当時のベトナムにはハノイとホーチミンに衛星中継用の伝送所があるだけだった。
ベトちゃんドクちゃん二人の名前が日本に知れ渡ったのは1986年6月、ベトちゃんの急性の脳症の治療のため日本に搬送されたことがきっかけだ。ベトナム戦争後日本の航空機がベトナムに飛来するのは初めてのことだった。緊急で高度な医療支援を行う経験や実績がない飛行で、脳症をおこしている幼児を無事に東京まで送らなければならなかった。
ベトナム戦争の名残りを残す米軍のファントム戦闘機の格納庫が残る殺風景なタンソニュット空港で日航機の到着を待った。ぜい弱な航空管制システムの空港に大型の旅客機がランディングすると集まったベトナム人や日本人を問わず拍手が起きた。
医師らに付き添われベトちゃんドクちゃん二人は日本に搬送され、日本航空と治療を支援した日赤医療センターの綿密な協力が功を奏した。ベトナムで二人が入院していたツズー病院で取材していたスタッフのほとんどが同機に乗り込み、筆者と技術者の二人が現地に残された。二人だけで病院から空港への搬送の模様や日航機の離陸それにベトナムの反応などを衛星中継で東京に送らなければならない。
空港からホーチミンの伝送所に急行した。伝送所と言っても大きなパラボラアンテナと二人のベトナム人技術者がいるだけだった。(写真)VTR編集もしなくてはならないが、編集室兼スタジオは隣接する倉庫だ。伝送時間を気にしながら技術者とインサート用の映像素材を編集する。原稿を書き、ベトちゃんドクちゃん二人の様子を伝えるベトナム共産党の機関紙ニャンザンを用意した。編集が終わりインサート用のVTRをセットして照明を用意すると同時に伝送時間が来てしまった。大急ぎで本社と電話で打ち合わせ、カメラの前に座りニャンザン紙を映しながら原稿を読み始めた。
突然技術者が姿を消した。インサート映像に切り替えるためカメラを離れVTRをスタートしスイッチをカメラからVTRに切り替えるためだ。サーカスのような衛星中継が終わり、確認の電話を本社に入れるとまだ東京の収録用のVTRは回っていないという。思わず早く回してと叫んでしまった。その後、収録準備完了の連絡を受け、再度営業用の顔つきと穏やかな声に戻し収録を終えた。収録完了の後は立ち上がれないほどに疲れきっていた。
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