第626回 突然祝日が消えたフィリピン 直井謙二
突然祝日が消えたフィリピン
2024年2月25日、フィリピンで民主化運動記念日を祝日にしないことが決まり反対の声も上がったが、大きなニュースにはならなかった。1986年2月25日は「エドサ革命」と呼ばれ、独裁体制をとる故マルコス大統領を失脚させ新たにアキノ元大統領が政権を取った日だ。以来民主化運動の記念として祝日としていたが、失脚した元マルコス大統領の息子で現職のマルコス大統領が記念日としないことを決めた。
「ピープルパワー」と呼ばれアジアで起きた民主化運動は後にインドネシアやタイそれにミャンマーなど他のアジア諸国の民主化運動にも影響を与えた。東西冷戦構造のシンボルともいえるベトナム戦争が1975年に終結しておよそ10年後のことだった。依然としてフィリピンのクラーク米空軍基地やスビック米海軍基地は機能していた。基地を保持したいアメリカは故マルコス大統領の独裁的な政策を批判しにくかったが、徐々に変化が起きていた。
1983年8月、政敵のニノイ・アキノ氏が民主化を促すため危険を覚悟で帰国したが、到着直後のマニラ空港で何者かに暗殺された。これがきっかけとなってフィリピン全土に民主化を求めるデモが広がっていった。妻のコーリー・アキノ氏は大統領選挙に立候補することで夫の遺志を継ぎマルコス独裁政権の打倒を目指した。フィリピン社会は圧倒的にアキノ候補を支持したため、危機感を持った故マルコス大統領は軍を背景に選挙に介入しようとした。
一方、民主化を求める勢力は「ナムフレル」という選挙監視団を組織して対抗。1986年2月、国を挙げての選挙戦が繰り広げられた。表向きの投票で勝利した故マルコス大統領だったが、選挙後投票箱が盗まれ、アキノ候補の得票がゼロの地区があるなど不正が明らかになった。筆者もマニラ郊外の小さな倉庫に隠された未開封の投票箱を見つけレポートした。
怒った民衆は、首都マニラを環状に結ぶエドサ通りでアキノ政権樹立まで大規模な市民デモや集会が行われた。これは「エドサ革命」と呼ばれた。軍も割れ、後にアキノ大統領を継いで大統領になったラモス参謀長もアキノ大統領を支持し、軍同士の銃撃戦も起きた。
結局アメリカの介入もあって長男で現在のマルコス大統領を含めマルコス一家はアメリカに亡命し。1986年2月25日アキノ政権が誕生した。しかし、時代と共に民主化運動は退潮し、民族主義や国内の治安に重きが置かれ世代交代もあって「エドサ革命」は風化し、2月25日は祝日ではなくなった。マニラに置かれたニノイ・アキノ氏の銅像はまだ残っている。(写真)
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