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第623回 がん患者さんが歌う「第九」の合唱コンサート 伊藤努

第623回 がん患者さんが歌う「第九」の合唱コンサート 伊藤努

第623回 がん患者さんが歌う「第九」の合唱コンサート

「歓喜(喜び)の歌」として知られるベートーベンの交響曲第九番第4楽章の合唱は、年の暮れにわが国でも各地で盛んに行われる市民コーラスなどで披露され、その季節感と併せて一種の風物詩ともなっている。その第九の合唱コンサートを年末ではない梅雨時の6月末に都内で鑑賞する機会があった。

「がん患者さんが歌う第九」チャリティーコンサートと銘打った公益財団法人「がん研究会」と「がん研有明病院」が主催するこの合唱コンサートは、2017年の第1回、2019年の第2回に続いて、今回は長い新型コロナ禍のトンネルを抜けて5年ぶり3回目の開催だった。クラシック音楽やその種のコンサートには疎く、縁遠くもある筆者が今回の合唱コンサートを鑑賞できたのは、全く偶然の成り行きだった。

というのも、日本フィルハーモニーという超一流の交響楽団が協力するこの合唱コンサートの約150人の歌い手の1人に学生時代の友人のAさんがいたため、Aさんとの共通の知人である音楽好きのHさんとともにコンサートへのお誘いを受けたという次第だ。Aさんは20年近く前となる2006年に甲状腺乳頭がんと診断され、チャリティーコンサートの主催者でもある「がん研有明病院」で長い期間にわたって治療、ときには手術を受けてきており、たまたま昨年末にコンサートの合唱団員募集のことを知り、応募したのだそうだ。自信はなかったものの、同じ病気の仲間と一緒に歌うことが本当に楽しく、心身ともにどんどん元気になるのを感じたという。

新宿副都心に隣接した初台にある東京オペラシティコンサートホールで開かれた「がん研第九チャリティーコンサート」には、秋篠宮妃殿下の紀子さまをはじめとして約1500人の来場者があり、開演前から5年ぶりの合唱コンサートを待ち焦がれていた会場の熱気のようなものを感じた。2時間にわたったプログラムでは、日本フィルによる交響曲第九番の第1楽章から第3楽章までの演奏に続いて、がん患者さんを中心とした男女150人の大合唱団の息の合った、迫力のある「歓喜」の歌声をたっぷりと堪能し、合唱が終わると、会場からは大きな拍手が長く続いた。「アルト」を担当するAさんからは、事前に舞台におけるおおよその位置を聞いていたが、客席に近い舞台にはそれぞれ大小の楽器を手にした日フィルの団員が大勢いたため、残念ながら合唱団の仲間と懸命に歌っているであろうAさんの姿をこの目で確認することはできなかった。


◇「声帯の機能が残ったら第九を歌いたい」の夢が実現
合唱コンサートの専門的な感想やコメントは、このように格調高い楽曲には疎い筆者の手に余るので、難しいドイツ語で「第九」を歌う合唱団に初めて参加したというAさんの思いやそのいきさつ、半年近くに及んだ毎週1回のペースでの練習・リハーサルの様子などをその後のメールのやりとりなどを通じてうかがうことができたため、本欄ではそちらのことを中心に紹介したい。

Aさんは甲状腺乳頭がんと診断されてから3カ月後の200610月、甲状腺を全摘し、放射線ヨードを内服する治療を受けていたが、2020年にがんが気管壁に再発。気管壁を合併切除して、一時的に気管孔を設置する手術では、片側の声帯がまひするリスクがあり、「声帯の機能が残ったら、第九を歌いたい」との遠い希望を胸に秘めて手術を受けたそうだ。声帯は無事で、今回の第九合唱団の参加となった。

以上が、Aさんが「合唱団員募集」への応募に至った経緯だが、その後の半年間ほどの合唱練習や本番の舞台に立った喜びが合唱コンサートの直後に届いたAさんからのメールで垣間見えたので、ご本人の承諾を得ながら、その一部を紹介させていただく。

◇本番までに20回の合唱練習と舞台稽古
「今回の合唱団のように素人が日フィルと共演したり、東京オペラシティーの舞台に上るなど、通常は考えられないことで、『がん患者特権』だと感じます。実際、コンサートを聴いてくださった演劇関係者からは『Aさんが羨ましかった。あの舞台に立てば、どんな景色が見えるのだろうかと思った』とのご感想もいただきました。

ただ、あの合唱団に参加する資格は『がん患者、元がん患者、その家族・遺族、がん医療に取り組む医療関係者』で、がん研有明病院の患者である必要もありません。国民の半分ががんに罹患する現在、ほぼ誰にでもこの条件は当てはまるのではないでしょうか。

今回の演奏会は2017年、2019年に次いで3回目でした。新型コロナ禍で中断していたわけです。今回は2月から6月まで20回の合唱練習があり、その後、オーケストラやソリストとの練習や舞台稽古などがありました。

初回のコンサートから3回とも参加した方のお話では、初回は40回の合唱練習があり、『第九は初めて。ドイツ語もオタマジャクシ(音符)も読めません』という参加者が多い中、合唱指導の先生が文字通り『口移しで』、第九を教えてくださったそうです。今回は20回の練習でできたわけで、そうやって少しずつ『伝統』が紡がれていくのだろうと思いました。(中略)

『第九初心者』の私はまだ興奮冷めやらずで、歌い慣れている方から見れば、よくある話ばかりなのでしょうが、いろいろな思いが尽きません。第九合唱団員募集には年齢制限がある場合もありますが、今回はとにかく『無理をせず、体調が悪いときは練習を休む』が第1条件であることも、安心して参加できた要因でした。また、不思議なことに、『周りが全部がん患者』と思うと、何だか安心できるのです。がん研有明病院の待合室で私が落ち着いていられるのも、周囲ががんで悩む人たちばかりだからだと常日頃、思っています」

Aさんのメールの引用がやや長くなったが、恐らく、今回の「第九合唱」に参加した150人の団員の方々の動機や思いは、人によってそれぞれ違いはあるだろう。しかし、がんという同じ病気を経験した方々にとって、「憧れの第九」を皆で歌うという目標に向けての取り組みは、心配や不安の多い治療を乗り越えていく大きな力にもなっているのは確かなようだ。そうした中で、がん患者さんやその家族、そしてがん診療に携わる医療者や支援者が集い、心を合わせて練習を重ね、歓喜の歌を歌いあげる感動を、コンサート会場の多くの来場者と共有できたことは「素晴らしい体験だった」と実感しつつ、同伴のHさんとともに第九合唱の余韻が残る会場を後にした。

 

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