第93回 「民主化の優等生」の凋落 伊藤努

第93回 「民主化の優等生」の凋落
今年も東南アジアの各国ではさまざまな出来事があったが、印象に残るということで特筆すべきは、3月から5月にかけてタイの首都バンコクで起きた街頭での抗議行動が騒乱状態にまで発展し、多数の死傷者を出したことだろう。治安部隊と親タクシン元首相派による局地的な内戦ともいわれた市街戦の舞台となったルンピニ公園の周辺は、がれきなどもすっかり片付けられ、静けさを取り戻しているが、タイ政界は相変わらず、クーデターで放逐されたタクシン氏の支持勢力とアピシット現政権を中心とした反タクシン陣営の対立が続いている。
民心は自陣営にあるとして早期の下院解散・総選挙を要求する親タクシン派に対し、当初は繰り上げ総選挙の方針を発表したアピシット首相はその後、一転して選挙日程には口をつぐんだ。やはり、勝つ自信がないからだろう。しかし、現在の国会下院は1年後には任期切れとなるので、来年中に総選挙が行われる。不正蓄財などで訴追されたタクシン元首相は海外亡命中の身で、選挙戦には直接参加できないが、地方の農村部を中心に支持者は多く、民主党政権が存続できるかどうかは予断を許さない。その先のシナリオは推測になってしまうが、仮に親タクシン政党主導の政権が誕生すれば、タクシン氏の復権、それを阻止する新たな軍の実力行使といった筋書きもあながち排除できない。
2006年のクーデター後、タイでは総選挙で勝利して誕生した政府に対し、反対派が街頭で激しい抗議行動を繰り返し、政権から引きずり降ろすと、今度は対立する両派の空港占拠や首都中心部での座り込みなどが相次いだ。議会無視の「街頭民主主義」が幅を利かせた。タクシン氏に代表される新興勢力と、アピシット政権やその背後に控える王党派らの守旧派との対立は、国民を巻き込んで収拾がつかなくなっている。それが先鋭的な形で現われたのが2010年の首都騒乱だったが、その繰り返しはもはや許されまい。
タイはかつて、東南アジア諸国の中でも進歩的な1997年憲法を手にするなど、「民主化の優等生」と呼ばれたものだが、近年の政治的混乱はその評価を失墜させた。またぞろ、不安定な政治を軍の力で正そうとすれば、時代錯誤の批判は免れまい。
一方、タイにおける政治的混迷をよそに、隣国のミャンマー軍事政権は、民主化指導者のアウン・サン・スー・チーさんの政治勢力を排除した総選挙で親軍政党を勝利させ、見せ掛けの「民政移管」を果たした。表向き混乱なく終わった同国の総選挙の結果に対して、タイ政府も一定の評価をせざるを得なかった。自国の政治運営も満足にできなければ、本来なら評価に値しない「民政移管」が評価の対象になってしまう。一部の国々とはいえ、東南アジアでの政治民主化の後退を憂慮する。