1. HOME
  2. 記事・コラム一覧
  3. コラム
  4. 第19回 近衞篤麿 忙中閑あり 嵯峨隆

記事・コラム一覧

第19回 近衞篤麿 忙中閑あり 嵯峨隆

第19回 近衞篤麿 忙中閑あり 嵯峨隆

南ドイツ漫遊の旅

1886年の7月から8月にかけて、近衞篤麿はドイツ南部を旅行した。彼は後に『南独漫遊草』と題する旅行記(『螢雪餘聞』所収)を著しており、その詳しい旅程を知ることができる。おそらく、記憶だけで書いたわけではないだろうから、近衞はその都度メモを取っていたのだろう。これに基づいて、この時の旅行の跡を追っていくことにしよう。

近衞が冒頭で「此の如く早急に出でゝ、此の如く長旅をなすとは夢にも想はざりしなり」と記しているように、この旅行は思いがけなく始まったものだった。

723日夕方、近衞はボンの下宿先で読書をしていたのだが、友人の品川弥一が突然訪ねてきて父の品川弥二郎(当時、駐ドイツ公使)が今夜当地にやって来ると告げた。世話になっている公使であり、これは接待しなければならないということで、公使館員の姉小路公義らと駅で出迎えホテルで夕食を共にした。翌日、品川公使はボン大学教授のライン博士に会いたいと言うので、彼を教授の自宅に連れて行くことにした。ラインが近衞の指導教授であることは前に書いたところだ。

公使をはじめとする一行はラインの自宅に訪ねたところ、午後から近村の名所であるドラヘンフェルスに皆で行ってみようということになった。ラインは人を連れ歩くのが好きな性格だった。一行は船でライン川を遡上し、ローランズエックで小休止した後、レーンドルフで下船して徒歩で山を登った。近くに鉄道が敷かれていたが、それは初めて見るアプト式であり、近衞には非常に興味深く思えたようだ。山を下った後は、再びラインの家に戻り、夕食後も話がはずみ夜半にまで及んだという。この日、近衞はまだ旅行に行くなどとは思ってもいなかっただろう。

25日早朝、近衞がまだベッドにあったところへ姉小路が訪ねてきて、これからハイデルベルクへ向かうので同行しないかという。近衞は渋ったのだが、姉小路は公使がその手前にあるニーダーヴァルト記念碑を見たいと言っていると述べた。近衞はそれならば日帰りできるだろうと考えて同行を承諾した。ところが駅に行ってみると、姉小路は列車の都合でニーダーヴァルト方面には向かわず、ハイデルベルク行きの切符を買ったと彼に告げた。その時、近衞は「はめられた」と思ったに違いない。しかし、これも後の話の種になるかと気を取り直して彼は列車に乗り込んだ。こうして旅は始まったのだった。

ハイデルベルク到着後は、姉小路の知人の案内でハイデルベルク城を見学した。城はルイ14世の軍によって破壊された部分もあるが、あえて修復せずに保存していることも興味深いと近衞は記している。翌26日には、近郊のヴォルフスブルンネンを訪れた。ここには小さな池があって、数十匹の鮎を飼っていたため、料理屋に頼んで2匹焼いてもらい、それに醤油を垂らして食べたとある。近衞は外食用にいつも醤油を携帯していたのだ。少しでも味付けを和風にしたかったのだろう。

ホテルに戻ると、公使はミュンヘンに一緒に行ってみないかという。日帰りのつもりで来た近衞は、荷物も着替えも持ってきていないため困ってしまった。すると、姉小路が「向こうへ行って買えばいいじゃないですか」と言う。近衞としては同行を断る理由がなくなってしまった。

近衞らはシュツットガルトで一泊したが、この地の博物館には日本の物品があることに気がついた。陶器、漆器、刀剣、土偶、玩具から箱根の細工物、有馬の竹細工に至るまで展示されていた。聞けば、東京大学教授であったエルヴィン・フォン・ベルツが寄贈したものだという。ただ、その物品の配列がかなりいい加減であったことには不満だった。貴重な品と玩具を乱雑に並べてあるようなもので、日本人の目からすれば遺憾に思えたのである。

ミュンヘンに着いたのは夜になってからであった。近衞はこの旅行の行く先々の都市や地方の由来などを詳しく記しているが、ミュンヘンの紹介には特に力が入っている。何しろビールの産地として有名なところだから無理もない。近衞は次のように書いている。

…又麦酒製造に名ありて世界中ミュンヘン麦酒の到らざる処なし。我国近来独乙ビールと称して玩味するもの即ち是なり。故に唯に独乙全州のみならず之を全世界中麦酒の淵源と云ふて可なり。停車場数千の白色列車を見る。是皆此地より麦酒輸出に用ふるものなりと云ふ。盛なりと云べし。

28日、加藤照麿、岩佐新、森林太郎ら留学生が訪ねて来た。加藤と岩佐は後に医師にして貴族院議員となる人物で、森は言わずと知れた軍医にして小説家の森鴎外である。彼らとは市内の美術館を参観した。そこには「無慮数万の絵画、上は羅馬時代より下て近世に至る迄大家名流の画」が集められていた。美術に造詣の深かった近衞であるから、十分に堪能することができたことだろう。昼食後は加藤らと別れて、午後は品川公使、姉小路と他の美術館に行ったが、こちらは見劣りするものだったようだ。このほか、彫刻館なども参観しており、旅行記には蘊蓄が書き連ねられている。

29日は加藤がやって来て、公使親子と4人で博物館に出かけている。ここでも展示品には満足したようだ。その後、マキシミリアヌム議事堂に行ってみたが、日中は参観できないとのことで、外部から偉観を楽しむほかはなかった。ホテルに戻り、しばらくすると加藤、岩佐、森らが訪ねてきて、公使を含めて皆で一杯やりに行こうということになった。

入ったのはホフブロイハウスという店だった。これをネットで検索してみたところ、1589年創業で、今日では「ミュンヘンに来たら絶対行きたいビアホール」といわれている有名店だ。ある年のこと、この店でレモンソーダを注文する客があり、すべてのウェイターがこれを拒絶する中で、主人だけが注文に応じたというエピソードがある。また、1920年にはナチスの党大会が開かれ、25ヵ条綱領が承認されたという所でもある。

近衞の記述によれば、「此酒店一の椅子なく、士官学生より馬夫職人に至る迄貴賤を論ぜず来り、飲むに皆樽に凭りて飲む。給仕の者なく各々自ら樽より盃に灑て飲む」というものだった。今日でいうセルフサービスのスタンドバーだったのだ(もちろん、現在は椅子もテーブルもあり、楽団も入った立派なものだ)。彼ら一行はここで賑やかな酒宴を繰り広げたのだった。問題は夜中にホテルに帰ってからであった。酔っ払った近衞は部屋で姉小路と相撲を取ったり、飛び跳ねてみたり、大声で笑ったりで、「恰も狂するが如く、泥酔乱暴至らざるなし」となり、ついには隣室の人に注意される有り様であった。

翌日、近衞はまったく赤面の至りであったと書いており、「やってしまった」と思ったことだろう。しかし、近衞のごとき大酒飲みはこのようなことでめげるはずはない。そして、旅はまだ続くのであった。

 
《近衞篤麿 忙中閑あり》前回
《近衞篤麿 忙中閑あり》次回
《近衞篤麿 忙中閑あり》の記事一覧へ

タグ

全部見る