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第20回 近衞篤麿 忙中閑あり 嵯峨隆

第20回 近衞篤麿 忙中閑あり 嵯峨隆

南ドイツの旅(承前)

1886730日、前夜の狂宴から醒めた近衞篤麿は、午前中にザルツブルグに向かう品川公使と姉小路を送った後、同行の岩佐新と森林太郎からミュンヘン近郊のシュタルンベルク湖に一緒に行ってみないかと誘われた。ボンに戻ろうとしていた近衞であったが、列車の都合もつかずにいたため彼らの計画に乗ることにした。

一行は午後から鉄路で現地に赴き遊覧船で湖を巡った。しばらくすると、対岸に小さな宮殿が見えてきた。それはバイエルン国王ルートヴィヒ2世が病気療養のために過ごした離宮であった。そして、湖畔に木の墓標が立てられているのが見えた。そこは2ヵ月ほど前に国王が掛かり付けの医師と共に水死体となって発見された場所の近くで、石碑を建てようとする計画があったが実現に至らず、とりあえず木標をもって代えているということだった。

近くに小さな村が見えたので、一行は陸に上がって茶店で休息を取った。そして帰りの遊覧船を待とうと再び水辺に行くと、そこにはまるで絨毯を敷きつめたように草が生えていた。そこで近衞は皆に向かって、「徒らに之を待たんよりは寧ろ角力(すもう)せんか」と誘うと、皆はこれに賛同したので、ここでしばらく相撲を取って遊んだのだった。

近衞の旅行記のこの部分を読んで、思いついたことがあった。拙著でも紹介したところだが、同行の森林太郎(鴎外)は『独逸日記』の中で、この日の情景を以下のように書いていたのである。

  三十日。朝公使及姉小路伯を送りて停車場に至る。午後近衞公、加藤(照麿)、岩佐とウルム湖に
  遊ぶ。近衞公加藤と角觝の戯を作す。その相対するの状を見るに、公は身短くして肥え、加藤は長く
  して痩す。観者皆笑ふ。已にして加藤を(つか) み、一間許りも投げ出したり。その膂力想ふべし。
  加藤は是より数日間頭痛に苦みたり。(以下略)

近衞が事実だけを書いているのに比べ、鴎外の文は日記ながら軽妙かつ洒脱だ。さすがは後に小説家として名を成すだけの才能を持った人物である。鴎外は「近衞公身体豊実、語気活溌、華族中の人とは思はれぬ程なり」と書いており、近衞を気に入っていたようだ。ちなみに、鴎外は4月以降すでに2度ほど湖を訪れていたらしく、この日の説明役は彼だったと見られる。なお、文中の「ウルム湖」はシュタルンベルク湖の別名である。

81日、ヴュルツブルクに移動していた近衞は、シーボルトの碑を見るなどした後、当地の日本人留学生と宗教についての意見を交換した。これも拙著で述べたことだが、近衞は西洋人の信仰を貴ぶ彼らの意見には賛同できなかったが、他日再会して議論することを約束して別れた。その夜、近衞は次の訪問地であるニュルンベルクに移動し、翌日には物産博物館やゲルマン博物館を見学した。近衞は無類の博物館好きだったことが窺える。

3日、近衞はハイデルベルクに向かった。この都市はドイツ最古の大学ループレヒト・カール大学(1386年創立)で知られ、この時期はちょうど大学の祭典の期間中であり、近衞はこれを目当てに当地にやって来たのだった。ここの市民は大学を誇りとしており、学生の祭典に協力している様子だった。

祭典のイベントの1つに、数百人の学生が夜に松明を持って行進するというものがあった。それを見た近衞は、「何れも酔て泥の如く、顔は油煙の為に斑黒となり、大声叱咤の行く有様は実に狂するが如し」と記している。いわば学生の乱痴気騒ぎには違いないのだが、市民もこれを楽しんでいる様子で、近衞はこのことを非常に羨ましく感じたようだ。

この祭典には卒業生も招待されており、中にはかつての制服制帽を身につけて市中を散歩する白髪の老人もいた。こうした情景を見て、近衞は日本人のように学校を卒業すれば俄に年寄りじみてしまって、学生を排斥するがごとき風潮を嘆かわしいと記している。

ハイデルベルクには日本人留学生も滞在しており、中には旧知の人もいたようだ。後に天皇機関説に対抗して天皇主権説を唱えた、法学者の穂積八束と会ったのもこの時のことだ。穂積とは祭典のイベントである古城での点火の儀式を見に行っているが、その後の二人の交際がどのようなものであったかは不詳である。

しかし、中には不思議な日本人学生もいた。ある日、知り合いの留学生の部屋で雑談していると、見知らぬ学生が混じっていた。彼はドイツ語で、自分は日本人で今日は同胞と会えてとても嬉しいと述べたが、皆は「どうせ酔っ払いのいたずらだろう」と思って、誰も相手にしなかった。すると彼は続けて、自分は長崎の生まれだが、幼い頃にヨーロッパに来たためほとんど日本語を話せないが、歌を1つだけ覚えていると言って突然歌い始めた。「逢うて嬉しや別れの辛さ、逢うて別れがなけりゃよい…」。

江戸端唄の一節なので、皆思わず吹き出してしまった。聞けば、この青年はヨーロッパ人とのハーフであり、近郊のマンハイムで医学を学んでおり、卒業後は日本に帰るつもりだとのことだった。そして立ち上がって、皆に健康で勉学に努めるようにと言い、「濫に麦酒に浸らざらんことを望む」と述べて去って行った。ビール浸りの近衞はもちろんだが、一同あっけに取られたことだろう。

近衞は品川弥一と共に8日にハイデルベルクを発し、マインツ、ビンゲンを経てライン川を渡り、ニーダーヴァルトの丘に登った。普仏戦争後のドイツ帝国発足を祝う記念碑を見るためである。その記念碑の中央の人物像はドイツ国家を美女に擬したゲルマニア像であり、高さ10.5メートルの壮大さに近衞は感嘆した。丘を下って昼食をとった後、品川がアンダーナッハという町に知人がいるので、一緒に行こうということになった。

アンダーナッハには酒を飲むために来たようなものだった。夜になると、近衞は早速ホテルで石坂、池田、桑田(いずれも不詳)らと酒宴を始めた。各自ビール2本とワインを空けた後、外に出て川辺で放歌高吟し、飲食店に入ってはまた数杯飲んだ。次に入った店には桑田の知り合いだというドイツ人学生がおり、一緒に飲もうということになって、深夜2時に至ってようやくお開きになった。近衞は旅行最後の日とあって、徹底的に飲み通したのである。そして翌日、二日酔の彼はボンに戻って行った。

近衞はこの度の旅行では大きな収穫があったと書いている。それは遊歴した各都市で、日本の物産を見る機会が多かったことだという。近衞によれば、日本製品は西洋人から好奇の目で見られているのではなく、高水準なものとして歓迎されている。そのため、日本人は今や西洋の模倣を続ける必要はなく、自らの技術をいっそう高めて行けばよいのだと述べている。最初から最後まで場当たり的に見える今回の旅行だが、近衞にとっては日本人としてのプライドを高めるものでもあったようだ。

 
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