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第18回 近衞篤麿 忙中閑あり 嵯峨隆

第18回 近衞篤麿 忙中閑あり 嵯峨隆

「楷盃」の発見

2018211日の『沖縄タイムス』に、「幻の『杯』300年ぶりに確認 琉球王国から京都の公家に献上」という記事が掲載された。それは以下のようなものである。

沖縄県教育庁文化財課は9日、県公文書館で記者会見を開き、同課が京都で行った資料調査で、琉球王国の士族だった程順則(16631734年)が京都の公家に献上した杯「孔林楷杯(こうりんかいはい)」が京都市の歴史資料保存施設「陽明文庫」で見つかったと発表した。これまで家譜資料などから存在は知られていたが、実物の現存が300年ぶりに判明。関係者は「琉球の文人たちの足跡をたどることができる貴重な資料だ」と話している。

「孔林楷杯」は1715年、程順則とかねて交流があった京都の公家、近衛家煕(いえひろ)への献上品で、縦最長26センチ、横最長21・5センチの大きさ。「孔林」は中国山東省曲阜にある孔子一族の墓地の名称で、杯は墓地にある楷の木の根元を切り作られた。同杯については程順則が1706年、進貢使節として北京に向かう途中に入手した記録がある。

昨年12月、県教育庁文化財課が京都市にある歴史資料保存施設の陽明文庫で琉球王国交流史に関する資料を調査した際、見つかった。17156月に献上された「孔林楷杯」と共に、これに関わる漢詩、程順則、蔡温らが近衛家の別邸に寄せた書「物外楼記」などが保管されていることも確認した。(後略)

記事中に出てくる近衞家熈(16671736)は近衞家第21代の当主である。1673(延宝元)年11月に7歳で元服し、1686年(貞享3)年には内大臣となった。以後累進して右大臣、左大臣に任じ、1707(宝永4)年に関白、09(同6)年に摂政、翌年には太政大臣となった。25(享保10)年には出家し、真覚と号した。

家熈は実務能力に優れており、京都の大火の際には適切な措置によって東山天皇を安全に避難させている。その一方で、彼は非常に文を好み、書をよくし、また茶の湯などにも精通していたと言われる。彼の一代において、多くの稀覯本、法帖、画幅が近衞家に収集されていた。このことは、徳川時代を通じ、多くの公家が財政的に逼迫する中で、近衞家はかなり潤っていたことがを証明するものだという(白柳秀湖『近衞家及び近衞公』)。

さて、上記の新聞記事では楷杯が「見つかった」とあるが、正確には「再発見」されたと言うべきである。というのは、1880(明治13)年から翌年にかけて、京都に滞在中の近衛篤麿が偶然にもこれを見つけていたからである。

近衞は京都から東京に移った後、18797月には共立学校(現在の開成中学・高校)に入り、9月には大学予備門(後の第一高等学校、現在の東京大学)に入学した。しかし、翌80年春頃から病を得て、学業を継続することが困難な状態となり、やむなく大学予備門を中退し、同年11月から近畿方面へと療養の旅へ出ることになる。近衞が京都の旧居に滞在したのは12月中の数週間と推測されるが、この間に楷杯を発見したのである。

『螢雪餘聞』第7巻に、楷盃の発見について書かれた「楷盃ノコト」という文章がある。執筆時期は不明だが、発見からかなりの年月をおいてのものだと思われる。これによると、京都に戻ってからというもの、日夜無聊のあまり別邸の書庫や、近衞家伝来の書画や器物を収めた陽明文庫に入っては、様々なものを取り出しては眺めていたという。

ある日のこと、陽明文庫に入ると「楷盃」と表書きした箱が目に留まり、それを取り出して開けてみた。すると、そこには「木根を以て製したる大盃」があり、別に「孔廟の楷木を以て造る」と記した紙が入っていた。近衞は直感的にこれが「珍器」であると分かった。近衞は自家伝来の名品として、秀才炉(白泥三峯炉)、蘇氏印譜、賀知章孝経の3つがあることは知っていたが、楷盃なるものの存在は知らなかった。一緒に住んでいた祖父の忠煕からも聞いたことがなかったと記している。

楷の木はウルシ科の落葉高木で、高さ20メートル以上、幹の直径は1メートルほどになるという。その根元から作られたのであるから、盃も大振りなものとなるのは当然であった。その写真が上記新聞記事に付されているが、盃の内側には金泥が塗られており、色鮮やかで見事なものである。近衞が驚嘆したのも頷ける。

その後、近衞が古書画を調べていくうちに、「楷盃之記」と題した一巻が見つかった。開いてみると、巻頭に「孔廟楷杯」の四文字が記され、本文には琉球人の程順則が清国に使節として渡り、孔林に参詣して楷木の根元を手に入れたことが書かれていた。盃はこれを加工して作ったものであり、同書には程順則が来日した折に家熈に献上したことが記されている。

孔子が亡くなった後、弟子たちはそれぞれ孔林の周辺に木を植えたという。近衞によれば、同書には楷の木は曾子が植えたものと書かれているというが、実際に植えたのは子貢だと伝えられている。また、楷の木は各地の孔子廟にも植えられているという。このように、孔子との縁が深いことから、楷の木は学問の聖木と言われるようになっていた。

程順則という人物は、記事に示されているように琉球王国の士族であり、しばしば清国に渡って学問や漢詩を修め、儒教の造詣の深さをもって知られていた。近衞は程のことを、「琉球の聖人と呼ばれし人にて、琉球の能く強国の蚕食に遭はざりしも、此人の計画に出づと云ふ」と記している。近衞は言及していないが、程は家熈に会った際に、鴨川にある近衞家の別荘・物外楼への詩文作成を依頼されている。「寄贈物外楼隠君子(物外楼の隠君子に寄せて贈る)」というのがそれである。

楷盃がこのような由来のあることを知って、近衞は療養先の有馬温泉から東京に戻った後、祖父にこのことを告げると非常に喜ばれたということである。かくして、孔林の楷盃は近衞家に献上されてから165年ぶりに人の目に触れたのである。しかし、それがこの時から再び130年以上にわたって、誰からも知られることなく文庫の中で眠り続けるとは、この時の近衞は思いもよらなかったことであろう。琉球との縁があって、楷盃は再び発見されることができたのである。

最後にふと思ったことがある。果して、この盃は実用に供したことがあるのだろうか。もし、この盃で酒を飲んだとすれば、孔門の一員に加わることは到底無理だとしても、何やら聖人の「お流れ」を頂戴できるような気がするのである。しかし、そのような大胆なことをした人はいなかっただろうと推測する。たとえ、酒好きの近衞であったとしてもである。

 
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