第630回 カメレオンの保護色に学ぶ危険な取材 直井謙二

カメレオンの保護色に学ぶ危険な取材
ベトナム戦争やカンボジア紛争が終結したアジアでは規模の大きな危険は少なくなったもののテロや殺人などの事件は後を絶たない。一方、真実をつかもうと深く取材すればおのずと危険度は増大する。取材時の安全性を高めるには現地に溶け込み、地元の人と区別をつきにくくするカメレオン的な保護色対策が重要になってくる。
まず服装は、周りを見渡して地元の人と同じようなスタイルにする。1980年代、東南アジアではサファリスーツが流行っていた。人件費の安かった東南アジアではサファリスーツは仕立てるのが一般的だ。さっそく洋品店に行きサファリスーツを数着作った。次に顔色だが、日本から来た直後は色白で目立ちやすいので、なるべく日に当たり肌を焼くようにする。3か月もすれば地元の人とほとんど外見上は変わらなくなる。高級な所持品はなるべくカバンの中に入れるが、日本で愛用していたカバンも現地生産の物に買い替える。

タイ
簡単にはいかないのが言葉だ。タイは植民地支配を受けた歴史がないことから日本と同様に英語を話せる人が少ない。サンスクリット系のタイ文字の読み書きはあきらめ、タイの日常会話に挑戦した。学校や個人レッスンを受け必死にタイ語の会話を練習するが、タイ語には4つの声調がありなかなか上達しない。苦節の5年、ようやく日常会話が何とか話せるようになった。
服装や顔はタイ人そっくりになれたのだが、会話はまだ微妙なタイ語の声調を外していた。日本語を覚えたての西洋人が「ワタシハー、ニホンスキデース」と変なイントネーションで話すのを聞いたことがある。頑張って日本語を話そうとする西洋人の場合はほほえましく受け入れられるが、5年たった筆者の外見はどう見てもタイ人と変わらない。初対面のタイ人は筆者が外国人を気取る変なタイ人に見えたらしく、ちゃんとしたタイ語で会話するよう注意された。自分は日本人なのでタイ語をうまく話せないと弁解したが、逆に日本人を気取っているととらわれさらに気まずくなった。
ルンビニ公園の脇を歩いているとバンコクに来た中年の女性のお上りさんに道を聞かれた。このあたりは良く知っている場所だったので「この道をまっすぐ行き、次の交差点を右に曲がればすぐですよ」と答えた。女性は「ありがとう」と言い残すとすたすたと目的地に向かった。筆者はタイ人であると思い込んでいるようだった。これで、地元の人と区別がつかないカメレオン的保護色対策は完璧だと確信した。
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