第176回 垣間見えたスハルト元大統領の光と影 直井謙二

第176回 垣間見えたスハルト元大統領の光と影
1980年代のインドネシアは東南アジアの盟主として国内ではスハルト元大統領の推進する開発独裁が一定の成果をあげ、国外ではモフタル元外相の下、東南アジアの懸案だったカンボジア紛争解決に向けリーダーシップをとっていた。
ジャカルタ近郊のボゴールで開かれた和平会議では当時のASEAN(東南アジア諸国連合)6か国の代表とASEANに対立していたベトナムやカンボジアの代表を招き、泥沼化した紛争解決の糸口を探った。
94年11月、ボゴール宮殿(写真)で開かれたAPEC(アジア太平洋経済協力)閣僚会議の記者会見ではスハルト元大統領がアメリカのクリントン元大統領ら各国の首脳をバックに会議の結果を発表した。

先進国は10年以内に新興国は20年以内に完全自由化を目指すと言う具体的な合意にこぎつけ、得意気な表情で合意内容を発表するスハルト元大統領の姿が目に焼き付いている。
スハルト体制が揺るぎ始めたのはタイ・バーツの暴落に端を発したアジア通貨危機だった。
97年7月、タイ・バーツ暴落に端を発したアジア通貨危機は翌年になるとインドネシアに波及し始め、通貨ルピアが1ドル2,500ルピアから12,000ルピアと4分1以下に暴落し、スーパーからコメが消えた。
東南アジアでは現在も経済が混乱すると流通を握る華僑がコメを隠し、コメ騒動が起きる。
スカルノ・ハッタ国際空港が閉鎖される寸前、ジャカルタに入った。首都ジャカルタは焼き討ちによる火柱が何本も立ちのぼり投宿したホテルのすぐわきでも火災が起きた。
アジア各国の支局からスタッフが集まり、日本人数人と10人ほどのインドネシア人それにフィリピン人、シンガポール人、香港人それにタイ人の総勢30人を超す国際取材部隊となった。
取材の真っただ中、華僑系のインドネシア人のスタッフが航空券を握りしめ、華僑華人が狙われているので家族を連れてシンガポールに逃げるため仕事を辞めたいと言ってきた。
騒乱状態のさなかに辞められては取材もできないし、スタッフにも危険が及ぶ。
ホテルをとって、家族ごと避難してもらった。ワーキングルームでは避難したインドネシア華僑のおばあさんがスタッフのためにお茶を入れるという奇妙な光景が見られた。
その後不安は的中し、中華街は焼き討ちにされ、ひいきにしていた中華レストランも灰になってしまった。
スハルト大統領が辞任すると騒乱はあっけなく終了した。軍事独裁政権もアジア通貨危機という経済問題に対して軍は何の役にも立たなかった。
写真1:ボゴール宮殿
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