第178回 特派員買い出し部隊 直井謙二

第178回 特派員買い出し部隊
経済と同様に流通もグローバル化し、多くの国で日本製品が売られるようになった。
1980年代までは日本製品が自由に手に入らない不自由な生活が特派員の悩みのひとつだった。特に食料品。鮮度が要求される魚貝類や日本人独自の嗜好品である日本茶や海苔が手に入りにくかった。
タイやフィリピンなど多くの東南アジア諸国では、現地に法人税を支払う現地法人化された企業には1年ビザが発給されるが、特派員など事業税を払わない企業で働く外国人にはビザ退去という制度が厳格に義務付けられ、3か月から半年に一度、赴任した国から家族を連れて国外に出なければならなかった。
高度経済成長前のアジアは多くの失業者を抱えていたため、外国人に労働市場を荒らされることを極端に嫌った。そのため外国人に3か月から半年に1度国外に出ることを強制すれば、働いた給料では生活費は足りないため外国人の不法労働を防げるという事だろう。
タイに赴任した80年代半ばは3か月ごとのビザ退去制度があった。取材の合間を見てシンガポールにビザ退去に出ることが多かった。シンガポールにあるタイ大使館に行ってパスポートを提出し、簡単な手続きを済ませ、ビザが発給される翌日パスポートを受け取りに行く。この間の時間が日本の食材を手に入れる貴重な時間になるのだった。
タイの支局は1人か2人しか日本人特派員がいないのでビザ退去でシンガポールに出た時は他の社の特派員の注文も受け、一緒に買ってくる習わしがあった。普段はしのぎを削る取材競争に明け暮れるライバル同士だが、家族のために日本の食材を手に入れることに関しては見事な協力関係が成立していた。
自由港のシンガポールには日本の食材が溢れていた。日系デパートもちゃんと心得ていてビザ退去中に買い物に来る日本人に、段ボール箱を用意しドライアイスを入れてくれた。

当時のバンコクにも寿司屋はあったが、衛生状態が芳しくなかったので、まだ小学生だった子供達にはシンガポールに行ったら寿司を食べさせてあげると諭し、バンコクでは我慢させていた。そして最初にシンガポールにビザ退去に出た時、約束通り、有名な寿司屋に子供達を連れて行ったのだが、大失敗してしまった。二人の子供は次々に寿司を注文した結果、食事代が400米ドル。当時のレートで7万円にもなってしまったのだ。
その後、蒼くなって今後の対策を立てた。
普段大好きな寿司を食べるのを我慢していて偉いから、シンガポールでは2軒レストランに連れて行くよと言って子供達を喜ばせ、まずハンバーガー店で食べさせ、腹が膨らんだあと寿司屋に連れて行くという策だった。
成人した子供達から、あの当時はよくも騙したと冗談交じりに文句を言われている。
写真1:日本の食材が並ぶシンガポールの日系デパート
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