第92回 タイの心の電話活動 直井謙二

第92回 タイの心の電話活動
海外赴任をする人にとって共通の悩みごとは健康問題だ。特に新興国では言葉も含めて心配の種だ。
1980年代に初めて家族とともにタイに赴任した時は、薬局が開店できるのではないかと言われるほどあらゆる種類の薬を携帯した。赴任して3カ月ほどたったころ、原因不明の熱が出た。早くも風土病に侵されたのではと思い、バンコクでも有名な大病院に駆け込んだ。
ホテルを思わせるような設備と親切な受付の対応に一安心したが、問題は言葉だ。診察待ちの間に持参した和英辞典で容態を説明するときに使う英単語をあらかじめ調べた。
順番が来て恐る恐るドアを開けると、部屋の奥から「どうなさいました」と医師の明るく鮮やかな日本語が聞こえた。大阪大学医学部を卒業したというタイ人の医師は、聴診器を当てながら的確に問診した。
「マラリアかデング熱ではないかと心配です」という筆者の問い掛けをニコニコしながら聞いていた医師は「よく日に焼けていますね。ゴルフですか」と切り返した。タイはゴルフ天国で、当時は日本の4分の1ぐらいの料金でプレーできたので、毎週のように出掛けていた。
「はい、よくいきます」と答えると、医師は「タイはゴルフが安いから日本人の方は暑い中をプレーされますね。軽い熱射病です。少しゴルフは控えましょう」と相変わらず笑顔を浮かべながら諭されてしまった。タイの大病院は、日本と同等の医療技術を持っていると言える。

しかし、うつ病など精神的な医療についてはネックになっている。日本語を話すタイ人の医師は多いが、心の病とも言える病気の治療には、日本人独特の心情や文化、それに生活環境を知った上で治療しなければならず、治療ができるタイ人の医師は少ない。慣れない外国暮らしで友人もできず、自殺するケースもまれではない。
10年ほど前からバンコクでボランティア活動を続ける「こころのでんわ」はタイ人と結婚し、バンコク郊外に住むチャイヤディ和子さんが自宅の一部を事務所代わりにして始めたボランティアだ。玄関に2本の電話を引き、3つほどの机を並べた簡素な事務所だが、年に100件ほどの電話相談があるという。
相談員はタイに赴任したサラリーマンや主婦など80人ほどいるが、一定の講習を受ける必要がある。講習会が済み、相談が順調に進む頃になると任期が切れて帰国しなければならないという悩みもある。
大使館など政府の関与はプライベートの問題もあってなかなか難しい面があり、「こころのでんわ」の活動に期待がかかっている。
写真:バンコクのバムルングラッド病院
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