〔54〕北京~瀋陽間の直通急行は国際列車だった 小牟田哲彦(作家)
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〔54〕北京~瀋陽間の直通急行は国際列車だった
現在、中国の首都・北京から遼寧省の省都・瀋陽までは、高速鉄道で最短わずか2時間半。だが、高速鉄道は21世紀になってから新たに建設された専用新線を走っており、それ以前は、清朝末期から100年以上にわたって数多くの優等列車が往来してきた在来線(京哈線)が同区間のメインルートだった。
その長い歴史の中で、この区間を走る路線が国際列車としての扱いを受けた時期が第2次世界大戦以前の短い時期に存在した。万里の長城付近に位置する山海関から北側の区間が、1932(昭和7)年の満洲国の建国によって中華民国に属する南側の区間と別々の国に属することになったからである。
それまでは、北平(現・北京)と奉天(現・瀋陽)を結ぶ直通列車が1泊2日の行程で運行されていた。鉄道省の編纂によって日本旅行協会が発行した『汽車時間表』の昭和5年10月号を開くと、北平~奉天間の路線は「中華民国国有鉄道北寧線」として毎日3往復の直通列車が走っていたことがわかる。ところが、1931(昭和6)年9月に満洲事変が発生した影響で直通列車の運行が中止。翌年に満洲国が成立して山海関付近に国境線が発生すると、直通列車の運休は長期化した。中華民国側としては、勝手に分離・独立した満洲国を正式な国家として認めるわけにはいかず、したがってその国有鉄道の列車の自国内への乗り入れを軽々に認めることはできなかったからだ。
ただ、この路線は当時の華北と満洲方面を直結する最重要幹線であり、直通列車の需要は根強かった。そこで、満洲側と中華民国側が東方旅行社という民間の合弁会社を共同出資によって設立し、この会社が直通列車の運行を担当し、両国の国鉄はそれぞれ独自にこの会社と直通列車の運行に関する契約を交わす、という折衷案が考え出された。列車の運行担当事業者と線路の管理者が異なるという、現代でいう上下分離方式に似た運営スタイルである。

北平(北京)~奉天(瀋陽)間直通列車のステッカー。北平の英語表記が「PEPING」となっているが、「PEIPING」が正しい。
これにより1934(昭和9)年7月、約3年ぶりに北平と奉天を結ぶ直通列車の運行が再開した。その直通列車の乗客に配付されたステッカー(上の画像参照)は、北京の天壇公園と奉天の大広場(現・中山広場)が万里の長城を境に隣接している図柄で、両都市の時間的接近をイメージしていると思われる。中国本土を走る列車なのに漢字だけでなく英文が併記されている点は、いかにも国際列車らしい。奉天の英語名が満洲語に由来する「Mukden」となっているのも、満洲国時代らしさを感じさせる。
直通列車とはいえ国境を越える国際列車であるから、新たに国境駅となった山海関駅の構内には満洲国と中華民国臨時政府の双方が税関を設置し、両替所も開かれた。昭和15(1940)年発行の全国ガイドブック『旅程と費用概算』には、山海関での検査は「時局柄特に嚴重な檢査を行はれて居るから、餘計な手廻り品は一切持つて行かないのが便利である」との注意文が記されている。こうした国際列車としての扱いが、終戦まで11年ほど続いた。





