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第23回 <番外編2>阮朝が生んだ「龍バロック」:啓定帝廟 東福大輔

第23回 <番外編2>阮朝が生んだ「龍バロック」:啓定帝廟 東福大輔

第23回 <番外編2>阮朝が生んだ「龍バロック」:啓定帝廟

ベトナム・フエ観光では、王宮だけでなく阮朝代々の陵墓を訪ねるのも楽しい。いずれも、建物の由来を記した石碑を納める「牌亭」、廟、池、そして墳墓とその前庭がさまざまなレイアウトで作られているのだが、その中に一風変わった陵墓がある。それは第12代皇帝、啓定(カイディン)帝のためのものだ。

次代の保大(バオダイ)帝の時に阮朝は終焉してしまうので、啓定帝は、そのハザマに位置する皇帝としてあまり注目されていない。後代の評価は、宗主国フランスに擁立されて贅沢な暮らしをした皇帝、といったところで、ベトナム史を記述した歴史書でも国の復権を願って活動した革命家達の記述に埋もれてしまっているありさまだ。そして、彼のそういった評価を決定づけているのがこの陵墓の建設のために国民に課した重税であった。

啓定帝は、1922年に宗主国フランスを訪ねたさい、現地の建造物に大いに感銘を受け、王宮内の中心的な建物、「建中殿」の増改築に際してバロック様式で建てるように命じたという。建中殿は王宮の奥深くに建っていた建物であるが、残念ながら戦乱によって破壊されて現存していない。だが、翌年から建設が始まったこの陵墓によってその姿を想像することはできるかもしれない。

他の皇帝の陵墓は、平面的な広がりを持っているのに対して、この啓定帝稜は階段状に設えられた庭園に組み合わされ、それぞれの段に拝庭、碑亭、そして陵墓本体である「天定宮」が建っている。全体としては西洋的な構成を持っているが、注目されるのはその表面の折衷的な装飾だ。印象としては「西洋的」といわれて納得してしまうところがあるが、建物全体の形は中国門のようでもあるし、所々にオーダーと呼ばれるギリシャ風のデザインが取り入れられているものの、それらの間は中国的な文様で埋め尽くされ、皇帝の紋章である龍がしつこいほどに巻きついている。西洋的な要素が中国的な装飾に埋没してしまっているのである。

その印象は、天定宮内部に入ってより強調されることになる。啓成殿と名付けられた部分を通って皇帝の像が安置されている部屋に入ると、ガラスや金箔でキンキラキンに飾られた内装と、天井や壁に作り込まれた夥しい数の龍に迎えられるのだ。こういった装飾様式は日本では「中華バロック」とよばれているが、この場合は「龍バロック」などと呼ぶ方が適当かもしれない。

この陵墓の建設は啓定帝の死後も続けられ、1931年に完成している。この年は、ニューヨークではエンパイア・ステート・ビルが、パリではル・コルビュジェ設計のサヴォア邸が竣工した年でもある。前者はアール・デコとよばれる様式の、後者はモダニズムの代表的な作品であり、いずれも建築物が装飾を捨て始めた契機といっていい。その同時代に、いわば前世代的な建築物が建設されていたことを考えると感慨深い。絶滅寸前のアンモナイトが複雑な「異常巻き」と呼ばれる形状を持っていたのと同じように、その過剰な装飾からは王朝がまもなく崩れ去る予感がひしひしと感じられるのである。


写真1枚目:装飾で飾りたてられた陵墓「天定宮啓成殿」の外観。
写真2枚目:天定宮内観。中央には啓定帝の像が設置されている


 

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