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〔5〕昭和40年代までのアジア客船渡航 小牟田哲彦(作家)

〔5〕昭和40年代までのアジア客船渡航 小牟田哲彦(作家)

〔5〕昭和40年代までのアジア客船渡航

今でも市販の鉄道時刻表に「国際航路」、つまり外国への船旅の運航スケジュールが載っていることを知る人が、いったいどのくらいいるだろう。21世紀に入ってすでに20年以上経過しており、日本から海外へ行くには、よほどの豪華クルーズ客船にでも乗らない限り飛行機で行くしかない、と思っている旅行者も少なくないのではないだろうか。「船に乗って外国へ行く」という旅行の選択肢がほとんどない以上、不思議なことではない。

2022(令和4)年現在、時刻表に掲載されている国際旅客航路は大阪・神戸から中国の上海へ、そして下関または博多から韓国の釜山へ渡る2ルートのみ。2000年代に入ったころまでは沖縄から台湾へ、そして日本海側の港町からロシアのウラジオストクへ、さらには北海道から樺太(サハリン)へと、一般旅行者が乗船できる航路が存在したが、コロナ禍も手伝って風前の灯火に近い。

海外への旅行手段として船が飛行機と互角に渡り合っていたのは、昭和40年代くらいまでと言ってよい。試しに昭和41(1966)年発行の『外国旅行案内』を開くと、飛行機の方がメインの扱いとはいえ、世界各地への旅客航路について概説するページがあり、「東洋各地」の項目には、「欧州航路あるいは豪州航路は、大概東南アジアの各地に寄港してゆくので、それらも利用できるが、そのほかにもAPLがマニラ、東京船舶がインドネシア、Norwegian Asia Lineが香港、マレーシア、United Philippine Lineがマニラ、関西汽船が香港・バンコク・釜山等へ就航している」と記されている。さらに、引用されている「欧州航路」の項目を見ると、「欧州航路は日本から香港・マニラ・シンガポール・インド洋諸港・スエズ運河を経由し、イタリアのゼノア、フランスのマルセイユなどに至るのが普通である」との書き出しで、客船各社の運行頻度を具体的に紹介している。 

中ほどのページには、大阪商船三井船舶(現・商船三井)が1ページ丸ごとカラーでの広告を出している(画像参照)。「船旅には情緒がある」というタイトルに始まる詩で旅情を誘うデザインからは、船旅を志向する旅行者への訴求力がまだ大きい時代だったことが感じられる。

アジア各地の旅行ガイドのページを開くと、当該国へのアクセスとして飛行機と船が同じくらいのボリュームで並んでいるケースが多い。香港へのアクセス紹介など「日本から多くの船がある」との書き出しで、航空便より船便の情報の方が先になっている。「所要日数は4~6日とみればよい」とあるから、それなりにのんびりした旅行ではあるが、当時はまだ、「海外旅行にはその程度の日数を要する」という意識が一般的だったのだろう。

日本で格安航空券が急速に普及していった1990年代から2000年代初頭に運航されていた国際旅客船の乗客は、運賃が飛行機に比べて安く、かつ飛行機よりも多くの荷物を運べることから、多くが日本の渡航先の国民だった。日中フェリーなら中国人、日露フェリーならロシア人が多く、日本で大量の家電製品等を購入して持ち帰る姿が多く見られた。日本人の乗船客は、時間に余裕がある夏休みや春休みの大学生などが主だった。

だが、それらの国々が経済発展を遂げ、日本との経済格差が昔話になれば、そうした乗船客も減る。残念ながら、国際航路が今後増える見込みは少ないだろう。残存するわずかな航路が、海洋国家・日本を肌で感じやすい貴重な機会を今後も提供してくれるよう、健闘を祈るばかりである。

《100年のアジア旅行 小牟田哲彦》前回
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