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〔6〕満鉄の中国語版パンフレット 小牟田哲彦(作家)

〔6〕満鉄の中国語版パンフレット 小牟田哲彦(作家)

〔6〕満鉄の中国語版パンフレット

戦前の満洲を疾走した超特急「あじあ」は、日本の国策会社である南満洲鉄道(満鉄)が走らせていた。満鉄は経営幹部はもとより、蒸気機関車の機関士や車掌、駅員など現業の鉄道職員まで日本人職員を多く雇用しており、旅客が受ける鉄道利用時のサービスは日本語だけで事足りた。

だが、満鉄はあくまでも日本列島外を走る異国の鉄道であり、満洲国の人口は中国人(漢族及び満洲族)が9割以上を占めていた。営業戦略上、沿線住民の9割以上にあたる中国人を旅客として計算しないことはあり得ない。また、北満洲には昭和初期までソ連が鉄道権益を持ち、ロシア革命以前からハルピン等の都市部にはロシア人が多く居住していた。さらに、満鉄はシベリア鉄道と接続してヨーロッパとアジアとを結ぶ国際連絡鉄道の一翼を担っており、世界各国の旅客が乗車することを想定していた。そのため、満鉄は旅客向けのサービス案内パンフレットを、日本語以外にも英語や中国語、それにロシア語で作成して無料で配布していた。

画像はそのうちの、昭和11(1936)年に大連の満鉄旅客課が作成した「南満洲鉄道沿線案内」の中国語版パンフレットの表紙である。「南満鉄路沿路指南」というタイトルが当時の横書きの日本語と同じく右から左へ書いてあるのでわかりにくいが、満鉄が多数のデザインで作成した「満鉄沿線案内」という日本語の旅客向けパンフレットをもとにしていると思われる。

折り畳み式のパンフレットを開くと、一面は「滿洲之概念」「滿鐵之沿路指南」の2項目の説明文と、多数の観光名所などの小写真とで構成されている。日本語ではひらがなで表記される特急「あじあ」の写真には、「特別快車『亞細亞』」とのキャプションが付されている。裏面は航空路線入りの満洲の鉄道路線図になっている。

「滿洲之概念」は満洲国の面積や人口、農業生産高や埋蔵鉱物などを羅列して紹介する無機質な項目で、旅行者向けの情報は「滿鐵之沿路指南」に集約されている。当時の旅行ガイドブックの多くがそうであったように、大多数の旅客にとってほぼ唯一の長距離移動手段である鉄道の路線ごとに駅名を並べて、それぞれの駅について最寄りの観光名所やその地域の特産品などを紹介するスタイルを採っている。具体的には、最初に大連~新京(現・長春)間を結ぶ幹線の「連京綫」(連京線)で起点の大連駅から終点の新京駅までの主要駅とその紹介文が並び、次に朝鮮半島との連絡路線である「安奉綫」(安奉線)について、連京線との接続駅である蘇家屯駅から鴨緑江沿いの安東(現・丹東)駅までの主要駅を列挙している。

中国語版なので読者は中国人を想定しているはずなのだが、本文をよく読むと、明らかに日本語版パンフレット、つまり日本人旅行者向けの文章を機械的に直訳した箇所が散見される。全体的に日露戦争の戦跡紹介がやたらに詳しかったり、「この地域の人口は●万人、そのうち日本人は●万人」のように人口の内数を日本人だけ紹介している点などがその典型だが、誰が接しても変わらないはずの景観美を「沿附近細河之清流多爲奇巌懸崖頗似日本耶馬溪」と解説したところで、大分県の耶馬渓が景勝地であることを知らない大多数の中国人にはほとんど意味のない比喩でしかない。

満鉄に関する当時の資料は、日本の株式会社であった以上、当然ながら日本語で記されているものが圧倒的に多い。また、旅客向けの印刷物としては、シベリア鉄道を介した欧亜国際連絡運輸の機能を果たす立場から、欧米人向けの英文リーフレットも多数制作されている。それらの日本語や英語で作成された印刷物に比べると、中国語バージョンのものは現代の日本に伝え遺されている数自体が少ない。その貴重な旅客向けパンフレットを読み解くと、たとえ日本語の原文と同じ内容であったとしても、その行間から、現地在住の中国人旅客に対する当時の満鉄旅客課のサービス意識がどのようなものであったかが垣間見えて興味深い。

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