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第12回 今も手作りピニシ船  直井謙二

第12回 今も手作りピニシ船  直井謙二

第12回 今も手作りピニシ船

インドネシアには1万4000の島があり、東西に長い。スマトラ島の東からニューギニアまでは、ロンドンからモスクワまでの距離に達する大国だ。2億人を超す世界最大のイスラム国と表現されるが、国民の1割以上はキリスト教徒やヒンズー教徒などが占める。アラブ人がイスラム教を伝えたほかに、インド文化を受容したり、欧米諸国の植民地支配を受けたりした結果だ。

外国からの宗教や文化の影響を受けるばかりでなく、インドネシア人は欧米が大航海時代を迎える以前から積極的に海外に乗り出していた。インド洋を渡ったのは欧米より先で、アフリカ東部のマダガスカルにはインドネシアの痕跡が見られるという。インドネシア中部のスラウェシ島の南部でピニシ船の取材をした。ピニシは、海洋民族ブギス族が建造してきた大型の木造船だ。(写真)



エンジンが開発される以前は帆船で季節風に乗って外洋を航海していた。造船現場にドックはなく、暑さを避けるためのヤシの茂る砂浜で一切の作業を行う。造船現場には設計図がない。経験を積んだ親方が弟子を指導するが、最近まで釘を使わなかったという。何十人も乗船できる大型船の造船技術が何代にもわたって口頭で伝えられた。村人は気さくだ。日本人があまり来ないのだろう、取材する私たちを村の若い女性が興味深げに見ている。そのうちの1人が「オシン」と声を掛けてきた。

インドネシアには250の言語があり、インドネシア人同士の会話にも時として通訳が必要だ。ましてやこちらはインドネシアの標準語も話せない。こういう場合は微笑むしかない。すると、今度は私たちを指して「オシン」という。ようやくNHKの人気テレビドラマ「オシン」のことだと分かった。日本人との唯一の理解の架け橋が「オシン」というわけだ。アジア中の人気をさらった「オシン」の人気を再確認した。電気も満足にない村だが、各家の軒先に大きなパラボラアンテナがあるのに気がついた。推進式を前に前夜祭に招待された。コーランを読み、ピニシの無事を祈り終わると、ピニシの甲板でにぎやかなパーティーが始まった。
村人と通じるたった1つの単語「オシン」が連発された。村人が自慢の料理を勧めるときも「オシン」。私たちが皿を受け取るときも「オシン」だ。

ピニシの推進は朝早くから始まる。砂浜から海までわずか数十ートルだが、ピニシを支える枕木が砂にめり込み、なかなか進まない。数十人の村人がロープをかけて引いたり、押したりして悪戦苦闘。ピニシが海上に出たのは夕日が海を染める頃だった。


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