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〔8〕満洲航空ではアヘンが航空貨物だった 小牟田哲彦(作家)

〔8〕満洲航空ではアヘンが航空貨物だった 小牟田哲彦(作家)

〔8〕満洲航空ではアヘンが航空貨物だった

航空機による空の旅というと現代の旅行スタイルのように思われがちだが、日本では昭和初期にはすでに主要都市間で航空会社が旅客営業を実施していた。今ほど航続距離が長くないし、乗客定員も少なかったから、遠距離間の便は経由地での離着陸を繰り返した。それでも、遠距離間になるほどその速達効果は高く、東京から朝鮮半島の京城(現・ソウル)まで鉄道と船を乗り継げば最短でも2泊3日かかったのが、鉄道と船の3等運賃の約5倍の運賃を要する航空便を利用すれば、10時間弱で到達できた。

昭和7(1932)年に満洲国が建国されると、日本の航空会社が現地に設立していた軍用航空部門をベースとして、ナショナルフラッグである満洲航空が発足した。今回紹介する画像は、その満洲航空が旅客向けに発行していた無料パンフレットである。パンフレット自体には発行年月が明記されていないが、記載されている企業名などから、昭和14(1939)年以降に作成されたものと思われる。

満洲では、日本国内以上に航空便の存在意義があった。陸上交通の場合、鉄道は満鉄(南満洲鉄道)や満洲国鉄の路線網がかなり充実していたとはいえ、広大な満洲の全域を鉄道だけでカバーすることはできない。ところが、満洲国成立後も満洲全土で必ずしも治安が安定していたわけではなく、特に鉄道沿線から離れた地域では馬賊とか匪賊と呼ばれる集団による反政府活動や略奪行為に遭遇する危険があった。そのため、特に満鉄の幹線から離れた都市部との交通手段として、陸上移動を避けられる航空便は旅の安全確保上、メリットが大きかった。

満洲国旗をあしらった表紙のパンフレットを開くと、区間ごとの旅客運賃表のほか、「御搭乗」「御送迎」「税関檢査」など搭乗時の手続き案内項目、「貸切飛行」「遊覧飛行」「宣傳飛行」など定期便以外の利用方法に関する案内項目などが列挙されている。「宣傳飛行」では、「なかんづく機上よりの宣傳ビラ撒布は極めて効果的であります。」と推奨している。現代ではほぼ不可能な広報手段だが、「プスモス機 10分間 12圓」「スーパー機 10分間 30圓」などと料金設定がされており、時間単位で空からビラ撒きができたようだ。

興味深い項目が並ぶ中で、小さな文字ながらあっと驚かされる内容が「航空貨物」欄の貨物の分類表に見られる。貨物の種類によって輸送運賃が異なることを、費目ごとに分類しているのだが、最も貨物運賃が高い「第一貴重品貨物」(普通運賃の三倍)に該当するものとして、「紙幣」「有價證券」「金塊」「寶石」の次に「阿片」が挙げられている(その後は「金貨」「其他是に準ずべきもの」)。清王朝を滅亡に追いやった麻薬アヘンが、「第一貴重品貨物」として正規に運搬できる貨物品扱いされているのである。

中国大陸では19世紀からアヘンの蔓延が深刻で中毒者が多かったため、日本統治下にあった関東州や新たに成立した満洲国はアヘンをいきなり厳禁するのではなく、国の専売商品として現存する中毒者には販売しつつ、新規購入者は認めない漸減策を採った。明治時代に日本が領有した台湾と同じ施策だが、満洲ではアヘンの専売利益が同国の財政を支える重要な資金源ともなっていた。アヘンが「紙幣」や「金塊」と同等の貴重品扱いを受ける貨物として、ナショナルフラッグの正規の貨物運賃表に堂々と載っているのは、そうした満洲独自のアヘン政策の表れと言えよう。

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