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第12回 近衞篤麿 忙中閑あり 嵯峨隆

第12回 近衞篤麿 忙中閑あり 嵯峨隆

海外視察の旅(その4)

近衞篤麿がシンガポールに到着したのは1899(明治32)年101日のことであった。日本を出発してからちょうど半年が経過したことになる。当地には半日ほど滞在する予定だったのだが、領事館の職員の話によると、近衞の歓迎会をしたがっている中国人がいるとのことだった。それは、中国変法派の指導者・康有為の門下に当たる人であった。

拙著でも書いたように、近衞は一時「同人種同盟論」を掲げて日中提携を主張していたが、康有為らの政治的主張とは相容れないものと見て提携を断っていた。そして、海外視察に出発する直前には、外務省の意向を受けて康らを海外退去させていた。しかし、康の一派は諦めていなかった。彼らは何とかして再び近衞に接近しようとしたのである。そのしつこさに近衞は驚き、そして立腹もしたようだ。彼は「是(これ)より北京に赴かんとするに、盛んに広東人の歓迎を受くる事は、今日の状況に於て却て迷惑」として、適当にあしらっておくように領事に命じている。

近衞一行は1013日の朝に香港に到着した。シンガポールから2週間近くもかかったのは、途中で台風に遭遇して船の進行が遅れたためである。船の揺れは激しく、後に乗客同士が命の無事を祝い合うほどの凄まじさであったらしい。なお、一行が乗り合わせた船はかつて難破したことがあるという曰く付きのもので、香港で待っていた関係者はかなり心配したとのことである。

香港での出迎えには、領事の上野季三郎や東亜同文会支部長の高橋謙、さらには宮崎滔天らが来ていた。この日の午後、近衞は領事館に赴いた。日記には、「領事の好意により日本流の風呂にて入浴す。又、日本料理の晩餐を餐せり」とある。近衞が半年ぶりに味わった日本流の生活に喜んだことが分かる。だが、珍しく何を食べたかは書いていない。当時、香港で食せる日本料理とはいかなるものだったろう。今と違って、刺し身があったとは到底思えないのだが、味噌汁や漬物のたぐいでも美味く感じたに違いない。

近衞は当地においても、変法派や革命派の人々が面会を求めていることを知らされた。彼の政治的利用価値を知ったうえでのことである。当然のごとく近衞はこれを拒絶した。「改革派は目下支那全部に同情を有するものなく、其派のもの余に面会せば大にこれを世に吹聴して、大に同感者たるものゝ如く云ひ為すの恐れあり」と判断したからである。革命派に対しても同様であった。しかし不思議なのは、両派に対して公然と支持を表明していた滔天を、近衞が全く避けようとしていないことである(この時も夕食に同席している)。滔天の人間的魅力なのか、人間関係の妙と言うべきなのだろう。

14日にはマカオに移動した。日記には「波止より上陸するや車夫群集、『来々々々』と叫びて客を争ひ、喧騒甚だし」とある。昔も今も変わらない中国の情景だ。近衞が投宿したのはホテル・ボア・ビスタであった。彼は「ホテルは高く海に瀕し、眺望甚だ佳なり」と記しており、かなり気に入ったらしい。確かに、マカオ博物館のウェブ・サイト掲載の往時の写真を見れば、近衞の言うように海を見渡すホテルだったことが分かる。なお、サイトの説明によれば、ホテルは後に「ホテル・ベラ・ビスタ」と改名され、マカオ返還の年に当たる1999(平成11)年まで営業を続けたということである。

近衞はマカオで東亜同文会(前年1026日に結成)から派遣された留学生たちと面会している。同文会の記録には、成立して間もなくして上海に7名、広東には6名の学生を派遣したとある。「広東」とあれば広州で学んだと考えるのが一般的だろうし、勉学や生活にも適しているように思える。しかし、同文会の学生はマカオにいた。同文会が当地を留学先に選んだとすれば、それはいかなる理由によってであったのか。この点は今のところ不明である。

それはさておき、近衞は香港では関係者以外との面会を断っていたのだが、自分が創設した同文会の学生ともあれば無下に断るわけにもいかなかった。そこで、表面的には面会謝絶としながらも偶然に出会ったという形で面会することにし、彼らと2日間にわたってマカオの市内見物などをしている。14日には、彼らに求められて、東亜問題およびバルカン問題についての講義を行っている。学習院院長としての事例と同様、近衞は学生に対する面倒見が良かったことが理解される。

16日朝、留学生らの見送る中、近衞一行は船で珠江を遡り広州へ向った。この時の短い船旅は近衞に取って極めて不愉快なものだったようだ。というのは、船長が「頗る下品なる人物」であり、乱暴な挙動には目に余るものがあったからだ。食事中の事件は最悪だった。ウェイターが同行者の服にスープをこぼすという不始末をしたのだが、船長の怒り様は尋常なものではなかった。「船長忽ち眼を瞋(いか)らしこれを叱責すると同時にフォークを擲ち、尚ほ席を離れて其給仕人を追ひ、甲板上にて頻りに打擲する(など)、実に無作法を極めた」のだった。近衞ら一行は、とんでもない船に乗ってしまったと思ったに違いない。

近衞が広州に来たのは日本政府の高官として、両広総督に面会するためであった。両広総督とは広東省・広西省の軍政と民政を統括する要職で、外国と交渉する機会も多く、かつてはアヘン禁絶に当たった林則徐もその地位にあった。そうだとすれば、かなり有能な人物が就く地位であるとは誰しも思うところだろう。近衞もそのような期待を持ったはずだ。この時の総督は譚鍾麟といい、興中会の広州蜂起を鎮圧したうえ、戊戌変法にも反対したことから西太后に高く評価されていた人物である。

17日午前、近衞は上野領事、同文会の高橋らとともに総督衙門を訪れた。そして総督のいる部屋に入って座に着いた。その後の様子は日記に次のように書かれている。「高橋の通訳にて暫時談話。果物、三鞭酒を出す。総督は庸愚の老物、談話は特に記すべきなし。間もなく辞す」。まさに酷評という以外にない書きぶりである。会談の内容は書かれていないため、いかなる点が気に入らなかったのかは不明である。ただ、彼が近衞の求める水準に及ばなかったことは確かだろう。彼の人物評価の厳しさを示していると言えよう。

この件についてはまだ書きたいことがあるのだが、すでに字数が尽きたので次回に続けることにする。

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