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第613回 言論人として活躍された「元上司」の素顔 伊藤努

第613回 言論人として活躍された「元上司」の素顔 伊藤努

第613回 言論人として活躍された「元上司」の素顔

筆者が大学を卒業後に入社した通信社で最初に配属された職場(国際ニュース報道を担当する外信部)の上司の部長で、その後、会社を中途退社されてからも言論界で長く保守派の論客、外交評論家として活躍された田久保忠衛さんが年明け早々に亡くなられた。戦中派世代に当たる昭和8年のお生まれで、享年90。新聞などメディアの訃報では、杏林大名誉教授、時事通信社外信部長、国民会議会長などの経歴が付記され、報道の世界から学界、言論界へと活躍の場を広げられていかれた生涯だったことが改めてしのばれた。

個人的なことで恐縮ながら、田久保さんと言えば、筆者にとって、いつも変わらぬ「偉大な上司」であり続けた。そして後年、職場が異なっても折に触れて仕事などでご一緒させていただいた際の幾つもの情景が思い出される不思議な方なのである。部長と駆け出しの部員というニュースの処理で慌ただしい職場での上下関係はわずか2年余りにすぎないのに、「終生にわたっての良き上司」という思いが強いのはそのためだろう。

江戸時代の水戸藩の下級藩士の家系につながる田久保さんは、高校時代から始めた和道流空手の8段の兵(つわもの)でもあり、良い意味での親分肌で周囲から慕われたのはそのような生い立ち、尊敬されていた空手道の師の下で武道を修めた骨太な生き方、生来の人徳も大いに関係しているのかもしれない。当時の編集局職場では、同年代の先輩・後輩から名前の「田久保」の一部を取って「たくやん」と親しみを込めて呼ばれていた。

昭和30年代初めに入社した田久保さんは駆け出しの記者時代は地方部(現・内政部)に所属し、当時の自治省や大蔵省を担当した後、沖縄返還前の那覇特派員やワシントン支局長、帰国後は外信部長と、どのようなポストに就いていても取材対象に食い込み、多くの特ダネをものしたと伝説的に語られている。そうした同じ会社の記者仲間の後輩には、後年、辛口の政治評論家として知られる屋山太郎氏がおられたが、入社年次が3年先輩の田久保さんとコンビを組んだこの2人組の取材記者としての活躍ぶりは屋山さんのエッセー本『私の喧嘩作法』(新潮社、2000年刊)にも詳しく描かれている。

筆者が入社した当時、ローマやジュネーブなどの特派員経験も豊富ながら政治部のデスクを務めていた屋山さんがパイプを片手に外信部長席の田久保さんの元に頻繁に現れては、世界情勢などについて話していた。屋山さんが中途退社して政治評論家として独立後、外交問題についても発言されることがよくあったが、現実を直視する田久保さんの国際政治観によく似ていると思ったものだ。

筆者がまだドイツ統一前の西ドイツで勤務していた折、田久保さんが昭和30年代半ばに2年ほど駐在経験がある西ドイツのハンブルクを再訪され、歴史あるこのハンザ同盟都市の景勝地、アルスター湖畔にある当時の下宿先探しでご一緒したのも懐かしい思い出だ。おぼろげな住所の記憶を頼りにそれらしき家屋跡があった場所を見つけ、しばし当時の思い出話をうかがった後、壮麗な市庁舎近くにある繁華街に戻り、奥さまから頼まれたという当時の東ドイツ製陶器の名品「マイセン陶器」の買い物に付き合わされた。そんな奥さん孝行の理由をうかがうと、「家内には原稿執筆の際の資料集めで助けてもらっているんだ」とさりげなく話され、当時、大学教授となっていた田久保さんの旺盛な評論執筆には奥さまの陰の協力があることを知った。原稿執筆は常に万年筆を使った手書きで、パソコンなどが苦手だった田久保さんとの仕事上の連絡は後年、ファクスの利用ないしは奥さま経由の電子メールでのやりとりとなった。

田久保さんは晩年、産経新聞社創刊80周年記念事業(2013年)として発表された「国民の憲法」要綱の委員長を務められたほか、ジャーナリストの櫻井よしこさんが2007年に設立した民間シンクタンク「国家基本問題研究所」に参画し、副理事長として活動を支えた。その間には政治的な影響力があることで知られる保守派団体「日本会議」の会長にも推されて就いた。

こうした社会的に注目を集めた政治的意味合いの強い言論活動を本格化される前の2000年代半ばには、政府傘下の独立行政法人の要請で第2次世界大戦直後からのスターリン体制下のソ連による旧日本兵らのシベリア抑留問題を扱った『戦後強制抑留史』(全8巻)の出版刊行のための編纂委員会を委員長として率いられた。準備期間を含め多年にわたる一大研究プロジェクトだったが、筆者はその末席で、一部テーマで資料収集と執筆を担当することになり、論客も多いソ連やロシアの研究者、専門家らの侃侃諤諤(かんかんがくがく)の議論をまとめていく田久保委員長の手際良い運営ぶりに驚かされた。

新宿の超高層ビルの一室で定期的に行われていた研究会の帰途、田久保さんには時間のあるとき、新宿駅に向かう途中の焼き鳥屋に時折、誘っていただいた。そうしたさりげない酒席でのやりとりを通じて、意見や立場の異なる研究者たちをうまくまとめていく田久保さんの指導力、調整能力の秘訣について、どのようなことであっても誠実な対応を心掛ける一方、しかし時には勇気を持って相手を説得するリーダーとしての自己の信念に基づくぶれない姿勢にあることに思い至った。日本という国家が模範にすべき世界的指導者として、英国のチャーチル、フランスのドゴールとともに明治時代に天皇の周りにいた元老らを挙げていたことが思い出される。長年にわたる元上司の折に触れてのご指導に改めて深く感謝し、ご冥福をお祈りしたい。


《アジアの今昔・未来 伊藤努》前回
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